創世記19章

創世記19章     ソドムの滅亡とロトの救出 

ソドムは、なぜ滅ぼされたのか。御使いは「彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」と言う。しかし、具体的な罪については何も告げていない(18:20も「彼らの罪はきわめて重い」とだけ)

しかし、ソドムの人々の邪な興味や不法な手段から推測することはできる(5-8節)ユダ書は「ソドムゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています」(7節)と証言する。パウロは、不自然な肉欲を男色など倒錯した性的欲望とみる(ローマ1:27)因みに英語のソドミーとは男色を意味する。

Ⅰロトと旅人

ロトは、ソドムの門前で二人の御使いを見かけた時「立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」そして「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください」と懇請する。もて成し上手だ。

これは、前章で見たアブラハムの行為と寸分違わない。ロトも御使いをそれとは知らずに迎えた。ロトは見知らぬ旅人に親切の限りを尽くしている「顔を地につけて伏し拝んだ」と言う行為は、私たちが言うところの礼拝を意味するものではない。見知らぬ人を「主人」と呼び、しもべの立場と労を取ったのである。これもアブラハムから学んだのであろう。

ロトが旅人を自宅に招請する様子は尋常ではない。親切の域を超えている。おそらく、ロトは旅人たちの無事を案じ、彼らを町の人々に委ねてはならないと言う危惧があったのであろう。それが、彼の決意を異常に見えるほど強いものにしたようだ。

この親切な行為によって、ロトの家族は救われることになる。それは、神の恵み深い配剤である。ロトは自分の「屋根の下に身を寄せた」者たちを守るために懸命になっている。力が及ばなければ、娘たちを犠牲にしてでもという決意を見せている。

ペテロが「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロト」(Ⅱペテロ2:7)と好意的に描写したのも、理由がないわけではなかった。

ここで、ロトは「パン種を入れないパンを焼い」て客を持て成す。後の律法は、パン種を腐敗(罪)の因子として考え、まつりごとにはパン種が厳禁されるようになった(レビ2:11)この時点では不明瞭であるが、この時すでにパン種を避ける習慣があったように描写されているのは興味深い。

Ⅱロトとソドムの住民

ロトは自分でソドムの地を選んだ。しかし、定住してみると、その道徳的な腐敗は目に余るものがあった。彼は懸命に声をあげて改善を求めたらしいが、彼に耳を貸す者はいなかった。ロトは無力であったが、沈黙してはいなかった。彼らの言葉がそれを裏書する。ソドムの人々は「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている」(箴言31:23)と言ってロトを罵る。ロトは批判されながらも公義に積極的に関心を示したのである。

ここで起こった出来事は、創世記著者にとっても遥か昔の事だが、イスラエルは後にもっと生々しい残虐な行為を繰り返した(士師19:22-25)主イエスも警告した(マタイ10:15、11:24)

預言者イザヤは「彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった」(イザヤ3:9)と訴えている。罪は習慣化すると厚顔無恥・恥じるところがない。パウロも「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3:19)と嘆いている。

ソドムの人々の興味は、老若を問わず不敬虔と好色にあった。倒錯した性は、神の創造の秩序にもとる「女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(ローマ1:26-27)しかし、今日では倒錯した性が半ば市民権を得つつある。

Ⅲロトと家族

ソドムは救いがたいが、御使いはロト一家の救出をはかる。その命令は「身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい・・・主はこの町を滅ぼす」と切迫している。

ロトの悲劇は、彼の懸命な言葉を娘婿たちが受け入れなかったことにある。婿たちは、ロトの言葉を「冗談」としたのである(出エジプト32:6、士師16:25)

朝になり、御使いがロトに出立を促したとき「彼はためらっていた」御使いの状況認識をロト自身が共有できないでいる。これでは、婿たちが本気にできなかったのも無理ない。御使いは、力ずくでロトの家族を連れ出す(著者は「主の彼に対するあわれみによる」と記す)

脱出に当たり御使いは警告する「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい」と。

しかし、残念ながらロトの応答は歯切れが悪い。何とも中途半端に見える。自己弁護が先立つ様子は、とても「いのちがけ」とは思えない。

ロトの「妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」(ルカ17:32)と言われている。なぜ「振り返ってはいけない」との警告に聞き従がわなかったのだろうか。

「振り返ってはいけない」とは、断ち切らなければならない過去との訣別を暗示するのであろう。神が滅ぼし尽くさなければならないものに、どれほどの価値があるというのか。アブラハムの旅は、後ろを振り向かなかったことで特筆されている。新約聖書はアブラハムについて「出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(ヘブル11:15-16)

イスラエルは、奴隷の境遇から解放された後、脱出したエジプトとその生活を幾度懐かしんだことか(出エジプト16:3、民数記11:5)主イエスは、御自分に従う者に「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(ルカ9:62)と教えた。

Ⅳロトとアブラハム

アブラハムはロトを片時も忘れない。彼はソドムの町々に煙が立ち上ったのを遥かに見て、いかなる心境を抱いたことか(小生の母は、東京大空襲で同じ経験をした)「神はアブラハムを覚えておられ・・・神はロトをその破壊の中からのがれさせた」祈りの子は滅びないと言われる所以である。

Ⅴロトと娘たち

ロトの娘たちは父親によって子を儲ける。この知恵はソドムから得たものであろう。諺は“泥棒にも三分の利”という。彼女たちにも躊躇いがなかったわけではない。それゆえ、自分を欺くために弁明する「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう」と。著者は、この件に関して良し悪し言わないが、律法は周辺の生活風習と一線を画すように求める。近親相姦や倒錯の性を厳禁する(レビ18:6-)

モアブ人とアンモン人の先祖が生まれた由来が告げられるとき、アブラハムに子が与えられた経緯を思い起こす。アブラハムは約束を与えられたにも拘わらず、イサクを得るまでに苦難の日々を経てきた。ロトの家では、何と安易に子を儲けたことか。

著者は、殊更に対比してはいないが、読者は神の祝福のあり方を理解する場面に遭遇しているのではないか。神は、石ころからでもアブラハムのすえを起こすことが出来る(ルカ3:8)しかし、人がそれぞれの場面に置かれているのは戯れ(偶然)ではない。神の経綸による。人は「主はここにおられる」(エゼキエル48:35)と言う畏れと信頼を告白して生きなければならない。

主は言われる「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」(詩篇32:8)ひとあし、ひとあし、心して歩みたい。