創世記18章

創世記18章      主がアブラハムを訪れる

この章は、アブラハムの執り成しの祈りとして知られる。19章を見ると、アブラハムの執り成しの祈りにも拘わらず、ソドムは壊滅を免れなかった事が判明する。ソドムの堕落の現状は、アブラハムの想像を超えたものであった。しかし、アブラハムの心中を知るあわれみ深い神は、彼の執り成しの祈りを覚えてロトを救出された(19:29.ペテロはロトに好意的、Ⅱペテロ2:7-8)

主の顕現は三人の人として描かれている。三人という表現は少なくないが、主に関して三人と言う表現は唯一である。三位一体がほのめかされていると言うつもりはないが興味深い。

Ⅰアブラハムが旅人を迎える(ヘブル13:1ー2)

「主は、アブラハムに現れた」これは、主なる神とアブラハムの出会いを擬人的に描写したものである(Ⅰテモテ6:16)ヨッパでペテロが幻を見たことを想起する(使徒10:9-13)

アブラハムは、自分の前に立つ旅人が主とその使いであることを知っていたわけではないが、自分の保護の下に来た者に対して素早く応じた。見知らぬ人に対するアブラハムの厚意は、その後のイスラエルで語り草となる。新約聖書は「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(ヘブル13:2)と証言する。

アブラハムは、神の召しに応じて以来(祝福されて多くの財産を持つものとされたが)神を求めてさ迷い歩く「さすらいのアラム人」(申命記26:5)であった。ヘブル書もアブラハムについて「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13)と。

アブラハムは旅人の危険と心細さを誰よりも良く理解したであろう。自分自身の経験と重なるからである(食卓を共にすることは友の契り、塩を添えれば永遠)

主イエスも「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた」(マタイ25:35-36)と語る。

気前の良いアブラハム

「地にひれ伏して礼をした」のは、いわゆる礼拝ではない。彼の最大級の謙虚さと親切心を表現したものである。その語りかけ「少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから」とは、いかにも遠慮深く慎み深い。しかし、食卓に載せられた物は「凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛」である(これは豪華な食事だ。ルカ15:23-24)

アブラハム自身も「走っていき」甲斐甲斐しく仕える。給仕を喜び楽しんでいるかのようだ。

Ⅱ主の懇ろな報い

神の訪れの日、神は諸々の恵みを携えて来られる「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている」

神の恵は、心地よいそよ風のように訪れるわけではない。時には激しい嵐に遭遇するようなチャレンジを受ける。アブラハムとサラは、成長しつつあるイシュマエルを見つめながら、自分たちの間に生まれる子どもをほとんど諦めていたのではないだろうか(13年間)

「サラはどこにいますか」(3:9、4:9)今、主の関心は直接サラに向けられた。サラの出番です。

「サラは心の中で笑」う。先のアブラハムの笑いが諦観めいていたとするなら、サラの笑いは自嘲気味と言えるであろう。サラは決して神を侮っているわけではない。今まで聞いたこともない事柄を受け入れ難いのは当然、皆ここで立ち往生するが、この躓きを通して、さらに神を知るに至る。

主の宣言は人の疑いを退ける「主に不可能なことがあろうか」と。これは、後の受胎告知において「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)と繰返された。まさに、全能の神の挑戦である(ローマ書が、患難・忍耐・練達・希望と展開するのはアブラハムの信仰記述の後)

Ⅲ神の友アブラハム

主は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と自問される。“そんなことは、とてもできない”というニュアンスである(著者の観点)

主は、契約においてアブラハムの人格的な尊厳を認めた(これは、アブラハムがどれほど確かな人であるかという事とは無縁である)もはや、天下のことはアブラハムを無視するわけにはいかない。後にイスラエルは、アブラハムを神の友と呼ぶ(Ⅱ歴代20:7、イザヤ41:8、ヤコブ2:23)因みにイスラエルでは「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(箴言17:17)と言われる(ヘブル語もギリシャ語も、友と愛は同じ語根)

主イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15:13-15)

私達の間で一番ポピュラーな賛美歌は「いつくしみ深き友なるイエス」であるが、友の真髄を感傷的に捉え、それで終わらせてはならない。

主が友アブラハムに明かした秘密は「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い」というもの。秘密が明かされるのは単なる情報公開ではない。神が興味本位に扱う秘密はない。明かされたときに重荷は共有される(これは、神の教会でも同様である)

Ⅳアブラハムの執り成し

アブラハムに秘密を明かした人たちは「ソドムのほうへと進んで行った」が、アブラハムは主を去らせない「アブラハムはまだ、主の前に立っていた」(マタイ28:18、20)

後に、アブラハムの孫ヤコブも同様な経験をしている。両者の事情は大分異なる。アブラハムはソドムのために祈る(甥ロトの救出が念頭にある)が、ヤコブは自分自身の解放のために主に縋った。しかし、共通なのは、主を捕らえて離さない点である。アブラハムは一つの祈りを6回繰り返し、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」(32:26)と、徹夜の祈りをした。

アブラハムは神の公義に訴える。

彼は自分が「ちりや灰にすぎない」ことを認識している。自分の願いが手前勝手で、主の怒りに価することも承知している。それでもなお取りすがる。

モーセは、金の子牛を造ったアロンとイスラエルに怒りを燃やしたが、神の前ではひたすらに赦しを請う「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」(出エジプト32:31-32)

アブラハムの執り成しは、モーセを経て、イスラエルの預言者たちに継承され、やがてパウロに引き継がれる。彼は誇り高い異邦人の宣教者であったが終生イスラエルを忘れたことはない「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(ローマ9:1-3、10:1)

主はアブラハムを覚えておられた(19:29)