創世記17章

創世記17章   神は、再びアブラムと契約を結ぶ

アブラムがイシュマエルを儲けたのは86才であった。ハガルによって得た子は、この家族の慰めになったとは言いがたい。ハガルは以前よりも謙虚(卑屈)になったであろうが、サライの傷が癒えたとは思えない。しかし、落胆することはない。アブラムは躓きながら成長していく。

アブラムはすでに99才になっている。イシュマエル事件から13年、神の沈黙は何を意味するのだろうか。おそらく、大きな失敗の後、神との信頼関係改善や家庭内の関係修復にも時間を要したことであろう。出口の見えない日々であったかもしれない。しかし、その間にも神の時は熟す。

Ⅰ主の顕現

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と、主はアブラムに自身を啓示する。全能の神(エル・シャダイ28:3、35:11、48:3他)は新しい啓示である。アブラムは、神に近づきながら、一つずつ神の御名を発見・確信する。先の「いと高き神」と同様「全能の神」は真にタイムリーな啓示であった(サライは不妊の女性であり、代替策が問題解決にならなかった今、神の全能に期待する外ない。これは「望み得ない時にも望む」(ローマ4:18)信仰に成熟する。

エノクやノアは「神と共に歩んだ」と伝え聞くが、今アブラムは「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と命ぜられる(48:15、Ⅰ列王2:4、Ⅱ列王20:3)ハガルのことは、妻サライと合意であったが、主の前にはどこか後ろめたいものがあったであろう。主の前とは、白日のもとに身をさらして、後ろ暗いところがないことに通じる(ヘブル10:22)

神の全能と全き人について一言。主イエスは「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)と命じている。全き人(完全)には、道徳的な完全という概念が執拗についてまわるが、ゴールを目指す真摯な姿を思い起こすのが適当ではないか。そして、全能の神がそれを可能にしてくださる(主イエスの御業は十字架で完結した。ヨハネ19:28)

Ⅱ主の祝福と契約のしるし

主がアブラムに与えた祝福は、繰り返されるたびに深められ念入りなものとなる(12、13、15章と対比すると、内容の充実とアブラム側の確信の深まりが見られる)

主がノアと交わした契約は一般恩恵的であった。神の恵として与えられ受け止められたのである。アブラムの契約は、恩恵に変わりはないが、アブラム自身が個人的な当事者として主体的に関わっている(15章では動物が裂かれ、この章では割礼が施される)

神は「いと高く、全能」で、人は及びもつかない(それは百も承知)しかし、その真理(事実)は両者を遠く隔てるものではなく、卑しく無力な人に希望を抱かせる。これが信仰の奥義ではないか。契約は、この両者の関係をあたかも平等であるかのように受け止めて交わされる(このようなタフな信仰はどのようにして養われたのか。絶えず語りかけてくださる神に導き出されたと言う外ないであろう。人は罪に汚れているとは言え、神のかたちを帯びている)

この契約には数々の祝福の約束が伴うが、その意図は「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」に要約されている。これは救いの本質を言い表し、聖書全巻を貫く希望である(出エジプト6:7、エレミヤ24:7、30:22、31:1,33、32:28、エゼキエル36:26-28、黙示21:7)

この契約には二つのしるしが伴った。

一つは改名。アブラムはこの日を境にアブラハムと呼ばれることになった。アルファベットの一字(ヘー)が加えられたのである。解釈は分かれるようであるが、明らかなことは「あなたは多くの国民の父となる」という約束の記念である。改名を主の御心と信じて実行したことは、約束をしっかりと受け止めた応答ではないか。

もう一つは「あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も」

割礼(出エジプト12:30、エレミヤ6:10、9:26)は、バビロニヤ・アッシリヤ・ペリシテでは知られていなかったが、その他の古代社会では成人式の儀式などで広く行われていたらしい。

今日では、割礼そのものを論じる意味は殆んどないが、割礼が意図した永遠の契約の意味は少しも害われていない。その恩恵は、既に述べたように「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」ことであり、それは究極の表現である(黙示21:7)

その範囲は「家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も」含む「金で買い取られたあなたの子孫ではない者も」とは驚嘆に値する。人が金で売買されていたのはアブラハムの家でも例外ではなかった(15:3)奴隷の人格が認められていなかった事は、ハガル事件で明らかである。人間の世界には歴然とした格差がある。しかし、契約がもたらすのは万人の創造者なる神の恩恵である。それ故、万人に門戸が開かれるのは当然ではないか。後のイスラエルが、アブラハムや創世記記者のような度量を持たなかった事が悔やまれる。

契約の時期は「生まれて八日目」速やかな応答が求められている。八日目とは、本人の意思とは無関係である。親の責任とはこのようなものではないだろうか。永遠の契約と呼ばれる所以である。

恵み深い神は、アブラハムの気がかりとなっているイシュマエルの事を忘れていない「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる」

私たちはアブラハム契約の展開の中で、アブラハムとサラの関係が正される(ハガルのような代替では間に合わない)と同時に、神の恵は「外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者」にも及ぶ広がりを見る。素朴な旧約聖書とその神学のなかに、後の宗教改革者たちも遥かに及ばない度量を見ることができる好例ではないだろうか。

Ⅲアブラハムの服従

妻サライの改名、彼女はこの時からサラと呼ばれる。改名の記念は彼女が母となることにあった。主は「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」

しかし、この啓示は、アブラハムには受け入れがたい。自らを省みれば、既に老いさらばえているのである。敬虔なアブラハムは神を拒んだり否定したりすることはできない。従がって「アブラハムはひれ伏し、そして笑った」無理もない「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか」

「笑う(ツァーハーク)」という語はイサク(イツハーク)の名を生むが、そのニュアンスは多岐にわたる。アブラハムが笑い(17:17)サラが笑い(18:12)イシュマエルも笑う(21:9、ガラテヤ4:29)人々も笑う(21:6)イサク自身も笑う(26:8)笑いは、自嘲的なもの、軽蔑含み、或いは敵意を抱き、半信半疑、喜びの声を上げてなど、心情と状況によって千変万化する。「人はその称賛によってためされる」(箴言27:21)と言われるが、何を笑い何を笑われるかによっても試される。

信仰は服従を伴う。アブラハムは到底期待できない状況に置かれていたにも拘らず、神との契約を受け入れた。後にパウロが「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」(ローマ4:18)と言い得た所以である。繰り返すまでもないが、信仰の軸足は主(の約束の言葉)に置く。

割礼は、カナンの地で新しい生活習慣に入る前に、契約という新しい意味が与えられた。やがて、イスラエルは割礼そのものを誇るようになるが、エレミヤは肉の割礼を卑しめている(9:25-26)

パウロも心に割礼があるか否かを問う。割礼の持つ意義を尊重する(ピリピ3:5、コロサイ2:11)神の恩恵のしるしを形骸化させるのは人の愚かさである。

割礼が形骸化したとき、新しい契約のしるしとして洗礼が与えられた。両者が約束する祝福は同一である。それ故、洗礼の意義を大切にする責任がある(マタイ28:19、使徒の働き3:38、ローマ6:3)小生は幼児洗礼が行なわれなくなった時代の傾向を残念に思う。