創世記16章

創世記16章           女たちの苦悩

神はアブラムに、すでに三回も子孫の繁栄を約束された(12:7、13:15-16、15:4-5)しかし、未だ一人の子も与えられていない。約束の実現は遅延しているかに見える。私たち読者の目から見れば、時が熟していないと言うことだが、与えられた約束だけを頼りに生きてきた当事者の苦悩は測り知れない。殊に女性の立場は、約束ゆえに追い詰められた心境ではなかったか。

今日なら“不妊の原因は女性の側にある”などとは言わない。しかし、近年までは、一方的に女性の責任と見られてきた(“三年子なくば去る”と言われ、離婚の原因とされた)

アブラムは決して非情な男ではなかった。しかし、妻サライは10年を虚しく過ごして、追い詰められた心境に至ったのであろう。すでに十分に苦しみ抜いたサライは自虐的な決断をする。自分自身を犠牲にするサライの決意には悲壮感がにじむが、その結末は余りにもむなしい。アブラハム契約は未曾有の祝福と考えられている(事実その通りである)が、サライにとっては残酷なものであった。

Ⅰサライの決意と結末

サライも夫アブラムと共に神の約束を信じた。信じなければ彼女が苦悩することはなかったであろう。信じた故に彼女の苦しみは始まった。サライは、自分が神の祝福を妨げていると考えた(アブラムは仄めかさなかっただろうか)彼女は言う「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」と。これは、私たちが初めて聞く、寡黙なサライの肉声である。なんとも哀れなサライ!

「主は私が子どもを産めないようにしておられます」サライは、主が夫に与えた祝福を露疑うことをせず、無知ではあるが全責任を自分で背負った。即ち、自分自身を“主に捨てられた女”とみなしたのである。主はサライを一度も拒んではいないが、サライは真剣にそう考えたのである。そして、女奴隷によって「私は子どもの母になれるでしょう」と望みを繋いだ。このような考え方は、ヤコブの妻ラケルやレアにも見られる(創世記30:3,9)

これは愚かな提案であるが、ひたむきに約束の実現を目指した女たちの執念でもあった(子を求めるユダの嫁タマルの行為には凄まじさを感じる(創世記38章)

「アブラムはサライの言うことを聞き入れた」

代理妻の問題はアブラムが提案したものではなく、彼が無理やりに強行したのでもない。しかし、アブラムは、サライの提案に躊躇う様子を見せなかった。自分からは言い出しにくいが、決して珍しくない事(世間ではよくあるケース)と承知したのであろう。

サライの自己犠牲的な計画はうまくいった「彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった」これで、懸案は一件落着する筈であったが、そうは行かなかった。正しく選択をしても、次に待ち受けている事態は予測がつかない。ましてスタートを誤れば、何が起こるか予測不能である。

「ハガルは自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった」これはサライの予期せぬ展開であった。サライは、感謝されないまでも、遠慮と謙虚さとを期待していたであろう。サライが受けた衝撃の大きさを想像することが出来るだろうか。サライの怒りは心頭に達した。彼女のこの後の行動は、まさに常軌を逸している。

「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです」もちろん、これに関してアブラムに責任が無いとは言えない。しかし、サライも責任なしとは言えない「あなたのせいです」とは、サライの激情の凄まじさを物語る。

サライの攻撃の矢面に立たされたアブラムは「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい」と逃げた。以下は、寡黙でしとやかであるかに見えたサライが、仮面を脱ぎ捨てた一幕である。同時に、戦いに長けた勇士であると思い描いていたアブラムが、女性問題では醜態をさらしたできごとであった。

その結果「サライが彼女(ハガル)をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った」

Ⅱハガルと見給う神

確かに、ハガルの行動は愚かであった。しかし“ハガルも悪かった”とハガルを責めるのは、論点のすり替えである。アブラム夫妻の責任とハガルの傲慢とを同列に扱うことは出来ない。

ハガルは偶然の好機を得て主人の妻の座につき、相続人の母となる機会を得た。ハガルの配慮を欠く振る舞いがサライの怒りを招くことになったが、これはハガルが望んだ事柄ではなかった。ハガルは主人たちの持ち駒のように使われ、敬虔や思慮に欠けていたので不幸な結末に陥ったのである。

「サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った」と言われる。執拗ないじめが繰り返されたのであろう。これがイスラエルの女性の憧れの人(Ⅰペテロ3:1-6)の現実である。あわれなハガルは、居たたまれなくなって逃げ出した。

「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ」る。

ハガルはエジプト人の女奴隷である。後のイスラエルは、このような立場の女性を歯牙にもかけない。ここでも、アブラムの家ではハガルを捜す動きはない。今となっては厄介者となったハガルが逃亡したことは、家族を安堵させたかも知れない。しかし、主の使いは、ハガルをあわれんで見い出す。イスラエルの先祖が主と呼んだのは、このような神である(シオニズム初期のイスラエルのリーダーたちは見識を持っていた。彼らは、第二次世界大戦終結後をにらんで、いたずらにパレスチナ人と事を構えることを避けるように努めたのだが・・・)

「彼女を見つけ」これは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と言われた主イエスを想起させる(主は欲望と孤独に埋もれていたザアカイをエリコで見い出した)

「サライの女奴隷ハガル」この呼びかけは、ハガルに自分の立場を認識させる。

「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」これは“ここはあなたのおるべきところではない”と言うニュアンスではないだろうか(創世記3:9、Ⅰ列王19:9、13)それは、本来あるべき所へ引き戻すための呼びかけである。

主の使いが現れた時、ハガルは主に向かい合うことができた。もちろん、主の使いの語りかけが先行する。これは、彼女が奴隷の身分ながら、アブラムの家庭の交わりの中で、ある程度主を認識していた証しではないか。

「あなたの女主人のもとに帰りなさい・・・彼女のもとで身を低くしなさい」(6節の苛めと同義、換言すれば、苛めに身を委ねよと言うに等しい(哀歌3:29-32、Ⅰペテロ5:5-6)主の使いは、ハガルにも祝福を約束する。即ち「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」と。しかし、事柄は決して単純ではない(人間の知恵が働き、神の計画を複雑なものにする)

ハガルの子イシュマエルは野人として育ち「その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」と言われる。モーセの時代、イシュマエルはイスラエルを悩ますものであったが、それでもイシュマエルを徒に蔑視することはない。神の約束を阻むのは約束の担い手だと言われる。私たちは、アブラムの責任は何かを問わなければならない。

Ⅲハガルの発見(告白)

ハガルは、自分が出会った主の御名を「エル・ロイ(見ておられる神)」と呼んだ。主人に追われて一人ぼっちだと考えていた身重のハガルは、自分に目を留めていてくださる神を知ったのである(詩人は「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」(27:1)と詠ったが、ハガルにとっても同じ体験であったろう。

著者はハガルの心情を「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と書いた。これは神の前に立ったモーセ自身の体験と重ね合わせているに違いない。

「それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた」(生きて見ておられる方の井戸)これは、ひとりハガルだけの神体験では終わらなかった。この井戸が命名されて、主の御名は広く後々まで崇められたのである(米国の現代作家にエル・ロイという男がいるが、敬神の香りはない)

ハガルは、命じられた通りにサライのもとに帰り男子を出産した。これがイシュマエルである。