創世記15章

創世記15章        アブラムは主を信じた

前章は、アブラムの勝利とメルキゼデクとの邂逅を物語っていた。それは、ある種の華々しい体験であったが、アブラムと彼の家族の中には、未だ約束が遂行されていく兆しを見ることができない。約束の成就を見るには忍耐が必要であるが、忍耐を支えるのは折々に与えられる約束の更新である。

神の約束は、一度交わされたら永遠に有効である。しかし、不信仰な私たちは、更新される事で確信を持つ。あわれみ深い神は、人の心が不信と不安に揺れ動くとき、懇ろに語りかけてくださる。

Ⅰ主の言葉が幻のうちにアブラムに臨む

「主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい』」

王たちの連合軍に勝利したアブラムは、自分に与えられた約束が実現する時の近いことを期待したであろう。しかし、その兆しは一向に現れない。すると心中に動揺が生じる。顧みると、前章のアブラムは出来すぎだった(恰好が良過ぎた)しかし、時がたつと、敵の逆襲・ソドム王との関係・無報酬の骨折り・相続人のないことなどが脳裏を占拠する(エリヤでさえも、大勝利の後で、イゼベルを恐れて逃げたではないか。Ⅰ列王19:1-3)

「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と言う励ましは、無我夢中で強大な敵を一度は追い払ったが、興奮が去ってから訪れる“ぞっとする思い”を癒すものである。

物語の展開は、アブラムの心に渦巻いた嵐を見せてくれる。その時アブラムが何を案じていたかと言うと「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか・・・ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」(なかば諦めの境地か。民数記18:20、詩篇16:5)

アブラムは、神の約束にも拘わらず、一向に子どもが与えられない現実に疲れ果てていたらしい。資産は増大したが、それを受け継ぐ相続人はおらず、忠実な奴隷・ダマスコのエリエゼルを相続者と決めて諦めていたらしい。そのような時であるから、神の幻はタイムリーであった。

これまで、神と人との出会いが人と人との出会いのように表現されてきたが「幻のうちに」という言葉が、むしろ現実味を呼び起こす(46:2、民数記12:6)

パウロは「主の幻と啓示(オプタシアとアポカルプシス)」を並置している(Ⅱコリント12:1)この両語は同義と見てよい(使徒26:19ではオプタシアを啓示と訳出)幻と訳す語はホラーマ、ホラシス(見るに由来)のほうが一般的。

主の言葉は「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と命じる。

アブラムの祝福理解は、これまで多様な含みを持っていた。広義の意味では、自分の家に繋がる者であるならばということで、忠実な奴隷・ダマスコのエリエゼルも考慮対象であった。しかし、この日、彼は「あなた自身から生まれ出て来る者」という確信を与えられたのである(先走るが、次章では、その意味をもっと厳密に理解することが求められる)そして、前回の「地のちり」(13:16)という比喩は、今回夜空の「星」に置き換えられている。

アブラムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

この章では、初めての表現に出会う「信じた」「義と認められた」もその特筆すべき語彙といえる。(幻、臨む・・・なども)

「信じた(アーマン)」アーメンはアーマンの派生語。原義は堅く踏み止まる事。イザヤ7:9と、Ⅱ歴代誌20:20の用法から学びたい。

アブラムは「義と認められた」義に関しては「義人はいない。ひとりもいない」(詩篇14:1-3)と言われる。人は信仰によって義とされる(ハバクク2:4)それは「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なし」(ローマ3:24)に成就した。アブラハムの信仰義認は、信仰による先取りと言える。

Ⅱ主はアブラムと契約を結ぶ

アブラムは「主を信じた」アブラムの神に対する信頼は揺がない。それゆえに「義と認められた」しかし、彼の探究心は旺盛である。彼は主に問う「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか」と。

このような問いが生じる心理的な背景は一様でない。ある者は、確信が持てず半信半疑で追加保障を求める場合がある(士師6:36-40)他の者は、信仰もないのにこのような問いを発することを拒む(イザヤ7:10-12)また、状況を正しく把握できずに問いかける者もいる(使徒1:6-7)

アブラムの場合は、そのいずれでもない。純粋な探究心であろう。信仰の姿勢は明白な神の言葉・神の御心に対する信頼と服従である。自分の無知を告白する私たちは、怯まずに「求め、捜し、門を叩く」能動的な意欲を忘れてはならない。求める者は得るのです。この問い(求め)から、神とアブラムの契約が結ばれた(結ぶという語は直訳すると切る)

契約の素材は「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩」その形式は「それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった」

おそらくこのような形は、既に行なわれていた契約形式の借用であろう(21:32、独創的である必要はない)しかし、着目しなければならないのは、動物が二つに裂かれ、契約の当事者が裂かれた動物の間を通ることである。形は後代まで継続された(エレミヤ34:18)

アブラムは、懸命に猛禽を追い払い睡魔と戦った。また「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った」やがて「日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」ことで契約は完結した。

これら一連のことは、1節が明らかにしているように幻のできごとである「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は、アブラムに主の臨在を感じさせた象徴である。幻による啓示を低級なものと見ているわけではない。聖霊に満たされたペテロも、コルネリオ(或いは異邦人)問題に踏み込む勇気を幻の中で与えられたのである(使徒10:9-17)

このできごとは、アブラムにさまざまな確信を抱かせた。

アブラムは、約束が成就するまでの長い時間を受け入れた。400年という時間をどのように理解すべきか。エジプト滞在を400年と考える者がおり、アブラム契約から出エジプトまでの時間と考える者もいる。或いは400年と4代とを関連付ける者もいる。

この記述(寄留者、奴隷、期間など)には、出エジプトを果たし、創世記を記録したモーセの理解が反映されていると考えて良いのではないか(アブラムにとっては、幻の中でのことであった)この場合も、アブラムは、時が主の御手の中にあることを学んだのではないだろうか。

アブラムは、もはや老いて死することを恐れない者となったようだ。慣用的な表現は「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう」と描写しているが、ヘブル書は「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(ヘブル11:16)と記している。

400年はともかく、アブラムは約束の実現に長い時間を要することを理解した。これは「エモリ人の咎」が満ちるまでの必然的な経過である(アブラムは、個人的にはエモリ人の有志と同盟を結んでいた、14:13)いずれにしても、自分の世代のことしか考えない者には無縁の世界である。

「その日、主はアブラムと契約を結」ばれた。契約について、用いられる動詞が三つ有る。カラトは切る(15:18)の意味。結ぶと訳されているが、違約をしたときの厳粛さを感じさせる。クームは建てる(6:18、9:9,11,17、17:7,19)契約が不動のものとして確立したことを表現するのであろうか。ナータンは与える(9:12,17:2)を意味する。契約というと、あたかも神と人とが互格のように聞えるが、契約は神の恵みの賜物である。言葉の上では五分であるが、恩恵に違いない。語句に拘泥するつもりはないが、微妙なニュアンスが窺い知れる程度には、一貫性を保つ必要がある。