創世記13章

創世記13章           アブラムとロト

前章では、飢饉に際して試みられた。この章では、神の祝福による繁栄が新しい問題を醸し出している。アブラムは、カルデヤのウルを出立以来、ハラン、そしてカナンと行動を共にしてきた甥ロトと分かれなければならない事情が生じた(結婚の誓約は、人生を健やかな時も病む時もと要約する。別の言い方をするなら、富める時も貧しき時もか)問題はいつでもどこからでも生じる。

Ⅰロトと別れる

「アブラムは・・・初めに天幕を張った所まで来た」(エジプトからネゲブへ、さらにベテルとアイの間の地へ)これは、双六遊びの“はじめに戻る”に似ている。これまでの時間や労力や気遣いは無益であった。戻るのは、自分の初めの選択が誤りであったことを認めることになる。それは自尊心を傷つけるので、勇気を要する行為である。なかなか受け入れ難い。しかし、誤りを犯した時には原点に戻るのが最善である(厳密には、初めの場所はシェケムだが、ここでは初期の場所と考える。後日ベテルが重要な意味を持つに至った故か)

「アブラムは、主の御名によって祈った」表現は12:8と同じであるが、明記されていない祈りの言葉は異なったであろう。先の祈りが賛美や導きを求めるものであったなら、この度の祈りは悔い改めから始まったに違いない(詩篇105、116)

「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった」。アブラムに与えられた祝福は、ロトにも与えられた。豊かな神の恵は、必然的に両者の共存を困難にした。水不足や牧草不足は自然の成り行きである。アブラムとロトの関係は良好であっても、直接利害に関わる牧者たちの関係は一触即発の緊張を孕んでいる。ひと悶着が避けられない。かくして争いが起こる。綻びは一番弱いところに生じるのが常である(ヨハネ3:26-30)油断は禁物である。

そこで、アブラムは「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」と提言する。

「争いがないように」と心遣い別離を提案する。平和的解決を求めたのは良い。アブラムが叔父さん風を吹かさない事も良い(二人の関係は、主従関係ではなく親類)ロトに優先権を与えたことは、アブラムの寛容を表わしているように見える(この世では、力関係で優位に立つ者が横暴に振舞う)

先決権を与えられたロトは「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」ヨルダンの低地を選んだ。彼の選択は賢く地の利を見極めたものであったが、見落とした事柄もあった「ソドムの人々は、よこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった」という現実を意に介さなかったようである(情報は伝え聞いていたであろう)

カナン移住は本来「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11:8)と言う性格のものである。カナンの生活では主の祝福が全てです。ロトの選択はこの点で問題があったかもしれない。次のステージで、主がアブラムに語りかけることと対比することが肝要である。

Ⅱ神の祝福

主は、アブラムに呼びかける「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」

「目を上げて」という呼びかけは、慰めの語り口。ロトも「目を上げて」周囲を見渡したが、彼の眼差しには小賢しげな油断のできないものが感じられてならない(僻みだろうか)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる」(Ⅱ歴代16:9)

預言者イザヤは「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(イザヤ40:26)と、打ちひしがれているイスラエルに語りかけ、同胞を慰め勇気付けた。

ロトに去られたアブラムの心境は如何に。別離の悲しみ以上に、自分が言い出した事とはいえ、置き去りにされたような無念があったかもしれない。その時、主は「目を上げて」と呼びかける。この場面を思いやると、アブラムが落胆して俯いているかのような情景が思い浮かぶ。

「この地全部」とは、実に壮大な相続地ではないか。これはロトが得た地域も包含するのである。未だ一片の土地も所有していないのに、このような約束をまともに受け止めるアブラムとは何者か。まさしく、信仰の父に相応しい。

「永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」「あなた」と名指されたアブラムではあるが、彼の生涯はさすらいのアラム人として終わる(妻サラの埋葬のために、僅かに墓地を所有した過ぎない)それ故、この約束を単に文字通りに受け止めるだけでは、誤りを犯す事になる。この言葉から、ユダヤ人のパレスチナ永久領有権が保障されていると考えるのは見当違いである。

この言葉の真意と成就とは、12章3節の祝福の広がりとして受け止めるべきではないか。ユダヤ人がパレスチナの地に特別な思いを抱くことは自然なことであるが、この地に難民を生じるのは神の経綸から遠く離れていると言ってもよいであろう。

パレスチナ問題の根は深く、ユダヤ人だけの責任問題ではない。全ての民の祝福が約束されたシンボル的な土地を、憎しみと闘争の凝縮した地に作り上げた世界(少なくとも、ユダヤ人やキリスト教徒)は、神の前にどんな申し開きをするのか。主は「国と力と栄とは限りなく汝のもの」と祈ることを教え、神に栄光を帰するように求めているのだから。

それはそれとして、神の約束のスケールの大きさに驚かされる。15章13節では、400年という時間が記されているが、これは自分の世代に起こることではない。自分のことだけしか考えられない者には、このような約束は“絵に描いた餅”に過ぎないであろう。しかし、アブラハム契約は、自分たちの子孫の時代を自分の問題として考えることを教えている(環境問題、二酸化炭素と地球温暖化問題などにおいても、現在の経済的権益を優先している)ヘブル書の記者は「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(11:36)と言う。忍耐がアブラハム的なスケールにまで成長したいものである。

「あなたの子孫を地のちりのように」

妻サライが不妊の問題を抱えているアブラムにとって、神の約束は一方的に聞える。しかし、たじろがない。地の塵とは、数え切れないほど無数のものの比喩であるが、日本にも“浜の真砂”と言う表現がある(釜茹でにされた石川五右衛門の辞世は“石川や浜の真砂は尽きるとも世に泥棒の種は尽きまじ”であった)

「地のちり」は、15章5節では、天空に輝く「星」にグレードアップしている。

「地を縦と横に歩き回りなさい」トルストイの有名な短編は、この聖句に基づくものであろう。

「主のために祭壇を築く」アブラムは、天幕を南のヘブロンに移して、そこで主の名を呼ぶ。ヘブロンにあるマムレの樫の木は、彼の生涯の目印的な役割を果たしている。23章20節では、アブラハムが妻サラをこの地に葬る。35章27節によるとイサクもこの地に滞在した。37章14節によればヤコブもこの地に寄留し、ヨセフを兄たちの所へ送り出している。

ところで、アブラムはこの度、何を心にかけて祈ったのであろうか。先に言及したが、もし、この時アブラムの心に、ロトに遅れた失意の如きものがあった(或いはよぎった)とするなら、どうであろうか。彼は、既にたくさんの富を所有している。富は飽くことのない欲求なのか。彼が主の声を聞いて顧るところがあったのなら、この祭壇は彼の価値観を変革させたことであろう。

それは、個人的な祝福に終始するところから脱皮して、神の視点から世界と万物を見るように導かれている。「御国を来たらせたまえ」という祈りの元祖であったと考えたい。