創世記1章

創世記1章            天地の創造

Ⅰ初めに、神が

「初めに、神が天と地を創造した」研究者たちは、1節の翻訳に腐心して見解が分かれる(従属節とするか否か・・・)冒頭の「初めに」という表現は、私たちにヨハネ福音書の書き出し「初めに、ことばがあった」(1:1)を想起させる(新改訳聖書は脚注で“キリストの永遠的存在を意味する”と注釈する)この両者に類比を見ることができるなら、創世記をヨハネの視点を借りて読むことができるのではないか。

ヨハネの言葉は、スタイルだけを創世記から借用したものではない。その言葉は「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(詩篇90:1-2)と詠われてきた歴史的信仰告白を背景としている。すると、創世記も「初めに、神がおられた」と読むことができる(神の永遠的存在は当然の事だが)

著者は、初めにおられた神が「天と地を創造した」と書き起こす。創造神話は世界中に(日本にも)あるが、ここに見られる創造論・神論・世界観に並ぶものはない(他の創造神話を一読されることを勧める。啓示と神話の相違が歴然としている)

聖書は、この一節に、天地の営みは神の主権の下に置かれていることを宣言(或いは告白)している(「創造する」と訳されたヘブル語バーラーは、神の創造行為を表現するために専ら用いられている。イザヤ40:26,28、43:1,7,15、45:12など)

よく対比されるバビロンの創造神話は、主神マルドークが混沌の諸勢力である神々の闘争に勝利した結果であると語るが、聖書は初めから主権者である神の創造を説く(詩篇はそれを裏付けている24:1-2、89:11、95:3-5、100:3)

神の意思に基づいて造られた天と地には、存在の意味と目的が生じる。それを知ることによって被造物の存在は輝く。しかし、これは人が単独で探求して解明できるものではない。神が啓示してくださる時、初めて知り得る事柄である(ヘブル1:1-2)このような謙虚な認識のもとで、預言者たちは心を静め、耳目を集めて歴史と自然世界を観察し、祈りつつ神に近づいた人々である。神もご自身を求めて近づく者に自ら近づき(ヤコブ4:8)啓示を与えてくださる(もちろん、人の探求・受容能力には限界があり、神の啓示も制約される。一番深遠な神自身については、御子の受肉を待たなければならなかった。ヨハネ1:18)

イザヤは、創世記1:1から見事な発見に到達している。彼は、罪深い人間性を知り尽くしていた(40:15-17、この後に創造論が続く)が、主の声を大胆に聞いて憚らない。即ち「わたしの目には、あなたは高価で尊い・・・ わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(43:4-7)と。

「神の栄光のために」という人生観の発見は、人間精神を高揚させ、希望を与え、肉体を奮い立たせて苦難に打ち克たせる。これが偶像の神々に向けられるのは空しい(我々の過去には、国のため・天皇のためにと動機付けられてきた歴史がある)

神が天と地を造られたのであるから、造られた世界は一つである。そこから生まれる世界観は“世界は一つ”という原理の上にある。後に、イスラエルが神の契約の民・選民を自負するようになっても、預言者たちは一つの世界というグローバルな認識を放棄することはなかった。神はイスラエルを長子と呼ばれるが、他民族を異母弟呼ばわりしたことはない(誇り高いオランダ改革派は奴隷商人となり、信仰の自由を求めて故国を逃れた清教徒の国アメリカでは、正統的キリスト教が奴隷制度を長く容認してきた。福音的と自負する南部に偏見が強い。神学的には疑義を抱かせられるアルバート・シュヴァイツァーではあるが、彼は“人間はみな兄弟”と言って、自身をアフリカにささげた)

以下は、小生の戯言であるが敢えて言葉にしてみる。福音の世界宣教は、主イエスの命令であり急務であるが、教会の歴史は自己を内省しなければならない時に、宣教という形でエネルギーを外に向けて発散して来なかっただろうか「全世界に出て行って」と言われた主は、約束の聖霊を受けるまで「エルサレムを離れるな」と命じられた。内的な準備不足が、新しい宣教地において、不本意ながらも差別や偏見の根を残してきたのではなかったか。

Ⅱ創造における神の霊(救いにおける聖霊の働きとの類比が考えられる)

2節は「地は茫漠(口語訳は形なく、共同訳は混沌)として何もなかった」と語る。どんな訳語が最適か判断することは容易でないが、2節の主張は明白である。闇が覆っていた所に神の霊が動き出したのである。闇から光へ、これが神の霊の御業である。ここには、イエス様が真理の御霊と指摘された認識はないが、超自然的な働きを神の霊に帰することは、旧約聖書で一貫している(創世記41:38、出エジプト31:3、士師15:14)。霊(ルーアッハ)は風とも訳される(主イエスも、霊を風の比喩で語る、ヨハネ3:8)

神の霊が「動いていた」という表現は、もう一度だけ見られる「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」(申命記32:11)この「動いていた」という表現には、人間的な言い方が許されるなら、産みの苦しみを連想する。天地の創造における聖霊の描写は優しい。ナザレの乙女マリヤを訪れた御使いガブリエルは、不安におののくマリヤに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35、ヨブ33:4)と語りかける(フォン・ラートは、神の霊を神の嵐と理解する。彼は霊の働きが明らかでないと主張)

闇という表現は不安を誘うが、闇は実体を持たない。闇とは光のないことである。この点から見ると、先の混沌は分かりやすいように思われるが、神話的前提の影響が強すぎるかも知れない。むしろ、捉えどころのない茫漠には無限の可能性が秘められている。実際、この後の秩序ある創造は、それを裏付けている(余談だが、砂漠は水さえ与えれば肥沃の地になる)

Ⅲ創造の瞥見3節以後、整然とした秩序の下で創造が語られている。

1、神による創造、自然発生的な偶然の所産ではない。それ故、神との関係性が問われる。

2、無から有への創造、或いは、闇から光への創造、造られた世界は希望に満ちている。

3、茫漠(或いは混沌)から秩序への創造(神は平和の神、Ⅰコリント14:33)可能性を与えられた世界は、責任を負わされている。

4、命令による創造、神の意志の下で造られた。万物の存在は神の言葉への服従の結果である。み言葉の権威を考える(ルカ7:9)

5、種類に従った創造、進化論など想定していなかったが・・・後に、雑種の混合などが厳しく拒否される理由は(レビ19:19、申命記22:6-7)ここから出たものか。

6、神のかたちに創造、人間が宇宙の冠と言われる所以である。しかし、敬虔な人々は、宇宙の屑に成り下がっている人間現実を見過ごさない。

7、男と女との創造、今日では性別の意義が危うくされている。人が男であり女であることは、自ら選ぶ事柄ではない。確かに、性同一性障害という歪があるが、障害を安易に除去したり回避することは、人間性の問題の解決にはならない。

8、キー・トーブ(良い)祝福に満ちた創造、今日世界は危機的な状況に置かれている。神の英知が絶妙なバランスを与えた被造物世界は、苦しみの度合いを増している(例えば、地球温暖化の問題、僅か1-2度の変化が生存を脅かす)

Ⅳ創造の祝福

1、神が「光があれ」と命じると光があった。これは光源体(太陽など)を造ったということではない(太陽は第四日目の作品として語られている)Ⅱコリント4:6は、神ご自身の光に言及している。黙示録は、神の国の光が太陽ではなく神の栄光であると明言する(21:23、22:5)

このような考え方は、旧約聖書の預言者の中に既に見られるものである(ゼカリヤ14:7)それにしても、最初に光の創造。著者が近代科学の定義する光を知る筈もないが、素晴らしいの一語に尽きる。主は私の光(詩篇27)と告白する。主は「わたしは世の光」と言われる。

世界は神の光のもとで創造された。我々の常識は、神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(Ⅰテモテ6:16)に同意する。神の創造は想像を絶する世界、驚嘆する外ない。

古代宗教が例外なく太陽を神格化した事は無理もない。しかし、聖書の世界では、太陽は被造物に過ぎない(詩19:5)このような神観は他に類を見ない、まさに啓示の賜物である。

それは、次の表現によっても明らかにされる。著者は14-16節で「光る物」の創造について語っている。これは、明らかに太陽と月とを指している。古代社会では、太陽や月は神名を表わすものであった。聖書の著者はそれを退けているのだろうか。

2「神は光を見て良し(トーブ)とされた」

以後、このトーブは繰り返し用いられる。神の業が良いのは当然であるが、肝腎なのは、人がこれを良いものとして受け止めることである。神の創造と秩序の尊重。

トーブとは何か。詩人は、神に向かって「トーブ・アッター(あなたはいつくしみ深くあられ、詩119:68)」と呼びかけている(直訳の方がインパクトも広がりもある)

主イエスは「尊い先生(ギリシャ語アガソスの直訳は良い)」(ルカ18:18)と呼びかけた品行方正な役人に「尊い(良い)方は、神おひとりのほかにはだれもありません」と答えた。これは、主イエスがアガソス(或いはトーブ)であることを否定したのではない。神への畏敬もなしに軽々しくアガソスを口にした者に、主が峻厳な姿を示したところである。なぜなら、良い方とは神ご自身なのである。このように言われた主は、賜物に忠実であった下僕たちに「良いしもべ」(マタイ25:21、ルカ19:17)と賛辞を惜しまない。トーブとは、測り知れない神の深淵を語り、併せて卑近なものにも与えられる神の恵みの形容である。

神と神の創造をトーブと受け止める認識があれば、人間と被造物世界の調和は今日のような破局を迎えなかったであろう(資源の枯渇、動植物の絶滅の危機、地球温暖化・・・)

3「光(オール)を昼(ヨーム)と名づけ、やみ(ホシェク)を夜(ライラー)と名づけ」

我々が「光と闇」という表現に出会うと、真っ先に倫理的な判断を持つが、ここには、いわゆる「光と闇」の対立概念は見受けられない。前節で「区別した(バーダル)」とあるように、動的な光と静的なやみに秩序が与えられ、それぞれの領域が定められたのである。人間の長く罪深い歴史の過程で、やみは文字通り闇となり、夜は不穏な夜と化したが、これは創造者が意図したものではない。著者も「区別」(4、7,14,18)として受け止めている。

ダビデは「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える」(詩16:7、42:8、63:6)と、夜が内省と安息の時であることを歌う。

「名づけた(カーラー)」には、呼びかける、宣言するの意がある。フォン・ラートは、命名を主権の行使であると考える(これは、後に人が鳥や獣に命名することに通じる)

4「夕があり、朝があった(ワイヒー・エレブ、ワイヒー・ボーケル)」

この表現も毎日繰り返される。ただし、7日目にはない。この小さな事実は、7日目安息日の性格を理解し、さらには創造の大目的を伺わせるものではないだろうか(後述)

「夕あり、朝あり」とは美しい表現ではあるが、奇妙な語順である。一日は朝に始まり夕べに終わると考えるのが自然で普通である。もし、この表現が伝承的なものであったとしても、そこには何か意図するところがあるに違いない。やみから光(夕から朝)が造り出された経緯によるのであろうか。やみと光は夜と昼に対比されている。それ故、夕と朝には、別な理解が可能ではないだろうか。

モーセは創造をトーブと描写したが、彼が生きた世界や人生は「トーブ」とは言えなかった。彼は人生を見つめ「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」(詩90:9-10)詠嘆している。モーセは、人生が労苦とわざわいに満ちていても、創造者が与えてくださるのは、失意と落胆の夕に替えて希望の朝だと確信したのではないか。

ダビデも「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩30:5)と歌っている。創造の一日目に光が生まれ、創造の完成と安息に向かっていく日々は「夕あり、朝あり」と表現されるのに相応しい。

5「第一日」昼(日)が完了して夕となり、夜が満ちて朝となるのである。

創造は6日を要した。神は全能であり、全能者は一瞬にして何事でもなしうるが、日を経た創造が描かれている。著者が、宇宙の時間的な経過を知るよしもない。しかし彼は、神の叡智が、さながら時を重ねて造り出したものとして、世界を提示している(知恵と配慮の作業、やっつけ仕事にあらず、詩篇90:4、千年はひと時)

7日目に特別な意味が持たされていることは明らかである。それ故に6日の創造である。しかし、一日を24時間と限定することはできない(太陽の創造以前に創造の日は始まっている)

6「種類に従って(マズリーア・ゼラ)」

地の植物、草も果樹も種類に従って造られた。その、色・香り・大きさ・季節は千差万別である。最近の印刷機は何億種類の色彩を写し出せるとのことであるが、自然の無限には遠く及ばない。この秩序は、草木から水棲動物、空の鳥、地の獣にも及んでいる。

パウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない」(ローマ1:21)と主張する(余談だが、小生は初めて元素の周期律表を見たとき感動したことを覚えている。50年前のことである。当時、未発見の元素がいくつもあったが、未発見でも、表に収まるべき場所と原子価は推測できたのである。それは、元素の世界が整然とした秩序の下にあるからである)

「種類に従って」とは、今日の進化論を想定してはいないが、質問を先取りした感さえある。モーセの律法は種の交雑を厳禁している。それは、様々なかたちで創造の秩序を乱す(或いは破壊する)現実があったからである。それは、創造者への挑戦である。

そこには、異種の交配だけではなく、意図は不明であるが、親子や男女の関係(近親相姦)を暗示するような事柄も見られる。

例えば「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない」(レビ19:19、出エジプト35:6)これは、純粋性を尊んだものと考えられる。

しかし「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない」(出エジプト23:19)と禁じられているのはなぜか。我々の社会なら“親子丼”の禁止である。このような律法制定の背景には、異教の祭儀習慣の拒否があると主張する者もいる。果たしてそんな単純なものなのか。古代社会にも、同性愛や近親相姦などの罪深い現実があり、正しい関係性をとり戻すために、必然的に神の秩序が求められたに違いない(レビ20:10-21も参照)ソドムやゴモラの現実があり、カナンの風俗は、モーセに神の秩序を想起させたことであろう。

Ⅴ人間の創造

1「さあ、人(アーダーム)を造ろう」(新改訳三版)

原典に「さあ」はない。解釈が割り込んでいる。しかし、状況としては分かりやすい。神は光の創造に始まって、天地を被造物で満たした。環境は整ったのである。最後に(6日目)神が被造物世界を委ねる人の創造に取り掛かる。満を持しての人間創造である。

27節を見ると、聖書が神の創造にだけ用いたバーラーが三度繰り返されている。人の創造は、万物の創造のクライマックス(これをもって、創造の完成とした)であることは明らかであるが、著者の感動と興奮を見る思いがする。

2「われわれのかたちとして(ベツァルメイヌー)われわれに似せて(キドムーテイヌー)」

ここで、神は複数のかたちで語られている。これは古代社会の多神教の影響ではない。

モーセは、十戒の冒頭でも周辺諸国の多神論を厳しく排除して、神が唯一であることを厳格に主張している(出エジプト20:2-3)たとえ「われわれ」という表現が理解困難であっても、一神教の確信に根ざして、この「われわれ」という言葉を理解しなければならない。

ここで三位一体が主張されているとは言えない(それは、後の人が振り返って見て分かることであっても)或る人々は、神が既に造られている被造物世界(ツェバオス)を巻き込んで、これらに呼びかけるように(なぜなら、被造物世界は人間と関わりを持つのであるから)と理解する。フォン・ラートは、イザヤ書6章を引用して、神的なもの(セラピムなど)が総動員されていると考えるが、同意しがたい。

三位一体という明白なものではないが、イスラエルは、神が「われわれ」という交わりの中におられる方と理解したのではないだろうか。それは、造られた人がその交わりに加えられるためである。詩篇なども「主は、私の主に仰せられる『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ』」(詩110:1)と詠い、単純な一神教ではない。

ベツァルメイヌー(ツェレム、エイコーン)とキデムーティヌー(デムート、ホモイオーシス)を区別して論じることは容易ではないが、ツェレムは身体的な類似に言及し、デムートは人格的な類似性を示すものではないか。

身体的類似とは、神に手足があるから人に手足が与えられたというのではない。神は見ることができる方、聞くことのできる方・・・である。それ故に、人は成功無比に造られた目や耳などを与えられているのである。人体の神秘は測り知れない。これゆえに、人は神のイメージ(イマゴ・デイ)を持つと言われる。ギリシャ語のエイコーンはコインに皇帝のイメージを刻むことで知られる(ルカ20:24)コインは皇帝ではないが、そのイメージは、メタルに皇帝の統治権を認め、通貨として機能する。

神は霊であり、人は肉体的な存在であるから、神と人が外見の風貌が似ていると考えることはできないが、人は至高の神を表わすものとして玄妙に造られたのである(詩8:5-6)

パウロはエペソ教会に「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:22-24、コロサイ3:8-10)と書いている。ここでは、人格的・倫理的な問題を取り上げている。

コリント教会には「私たちは・・・神の前にかぐわしいキリストの香り」(Ⅱ3:15)と書き送る。人はどこまで神に似せて造られたのか。知り得るよしもないが、キリストの贖いによってやがて栄化される約束を待つ者としては、無制限だと言えないだろうか。

パウロは「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)と書き、ヨハネも「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(Ⅰヨハネ3:2)と記す。いずれにしても、彼らのセルフ・エスティメイト(自己評価)の高さに驚かされる。もちろん個人的なことではない。著者も罪深い人間性にウンザリしている筈である。しかし、創造者の意図を正しく理解している。

3「男(ザーカル)と女(ネケイバー)とに彼らを創造された」

男と女との関係は次章で明らかにする(2:18-25)とにかく、人はイマゴ・デイを持つ男と女に造られたのである。しかし、人間の歴史はなんと多くの人種を差別してきたことか。基本的人権を唱える現代でも、人は歴然として差別の下に置かれている。

さて、人(アーダーム)は単数であるが、人とは男と女でもある(人類と理解する者もある)人が男と女である事の類比を、唯一の神が「われわれ」と複数表記されていることに見ることはできないだろうか(バビロニア神話の人間創造における神々の意図は興味深い)もし、可能なら、男と女との関係の原理に、三位の神の調和を仰がなければならない。また、男と女という歴然とした違いにも拘わらず、保持されなければならない尊厳(後に、ふさわしい助け手と呼ぶに値する)等の発見に通じる。神が創造された男女の関係は、豊かなものであったのに、罪が破壊した結果は今日見るとおりである。

4「生めよ。ふえよ。地を満たせ(ペルー、ウーレブー、ウーミルウー)」

「生めよ」とは驚きである。人の誕生は、神の創造の頂点にある傑作である。神は、この業を土の器に託された。人は、神の創造の継承者とされたのである。生殖という概念を、恐れとおののきをもって受け入れなければなるまい(性交、妊娠、堕胎、育児・・・)

神のかたちを帯びた人が、神の祝福を受けて増加するなら、地は自ずと人で満ちる。それは、造られた世界に神のかたちを帯びた人が満ちることである。人が地の至る所で神が崇めるなら、神は全地で崇められることになる。今日、人は世界に満ちているが、神のかたちは甚だしく害われている。人は神の栄光を現しえず、紛争の種を撒き散らしている。

5「すべてのものを支配する(キブシューアー・ウーレドゥーは足で踏みにじる)」

人は被造物世界を支配する(カーバシュは足で踏む、ラーダーの語義はルールに従って支配する)ように造られた。ここでは神から委ねられた権威と秩序を保持する責任が問われる。

人は神に与えられた権威を横暴の剣に変えてはならない。人は万物の霊長であると嘯くが、今日まで、万物を悩ませてきたことに弁解の余地がない(ローマ8:19-20)

環境問題なども、国際会議の場では各国の利害が絡んではかばかしくない。神の前に出なければ、公正な責任の意識は生まれない。

地を従わせることは、利己的に利用する(搾取する)ことではない。これについては後述。植物は食物として与えられているが、動植物が絶滅する所は、やがて人も住めなくなる。

6「非常に良かった(トーブ・メオード)」創造の完成にふさわしい賛辞である。

メソポタミア神話は、人間の創造を次のように伝えている。神々の世界には、上級の神々と下級の神々があり、下級の神々は上級の神々に仕える(食物の供給など)ことを拒んで混乱が生じた。そこで、神々は代わりの奉仕者を必要とした。知恵の神エンキは、泥で人形を作り下級の神の血を混ぜて(有能な奉仕者とし、同時に寿命制限のため)人を作り出す。やがて人が増加して、その騒音に耐えがたくなったエンリルは、病気や飢饉などで人を悩まし、最後に洪水を引き起こす(エンキはこれを不本意として、人に方舟作りを指示する)まことに勝手気ままな神々の仕業であるが、人間存在の苦難を説明するには十分である。ここでは、神々と人間とは相対的な関係である。また、罪の概念は見受けられない。

古事記に見られる人間創造は、イザナギとイザナミの性交渉によるものである。神々と人間の関係は、肉体関係の延長にある。聖書が語る創造者と被造物の関係ではない。

Ⅵ創造の完了・安息

第6日に人間が造られて創造は完了した。第7日目を語る2:1-3は、明らかに1章に直結するものと考えられる。しかし、歴史的教会は6日と7日の間に章の区切りを置いた。その理由は2章で検討してみたい。

神は7日目に完成を告げられた。創造の業は6日で完了しているが、神はその宣言を7日目にされた。それは、6日と7日が連続していることを示唆しているのではないか。強いて言えば、創造と安息とは、私たちの仕事と休日のような関係ではない。私たちの間では、創造或いは労働と安息或いは休日は、全く対極にあるものとして考えられている(例えば、労働日を減らして、休日を増加する)しかし、本来、安息は労苦の賜物であり、安息がダイナミックな勤労にエネルギーを用意するのである。良い労働なくして良い安息はないが、逆も真である(休日の翌日が一番辛いと聞くことがある。健全な循環構造に梗塞が生じている所以である)

神は7日目にお疲れ休みしたのではなく、安息を創造されたのである(小生は、安息を一つの創造、究極の目的と見る。これに関しては次章で論じる)

実際「神は・・・すべての創造のわざを休まれた」と言われているが、主イエスは安息日問題に関して「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5:19)と明言されている。神にお疲れ休みはない。神は造られた世界の秩序を今も保持しておられる。

神は「この日を聖である(ワイカデーシ)とされた」しかし、この日が礼拝日であると規定されていたわけではない。安息日が礼拝と関わってきたのは十戒や礼拝規定が作られてからではないだろうか。

レビ記24:8には「彼は安息日ごとに、絶えずこれ(礼拝のささげもの)を主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である」と規定されている(民数記28:9も参照)

時代は下るが、エリシャの時代には、個人の生活でも安息日に預言者を訪れることは自然なことになっていたようである。エリシャを訪れようとしている女性に「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」(Ⅱ列王4:23)と、夫が妻にたずねる記録がある。

しかし、アモスやイザヤの時代に、安息日や他の祭日は既に形骸化していたと見られる(イザヤ1:13、アモス8:5、ホセア2:11)

エゼキエルは、ユダに望んだ禍の根源を、安息日(それが持つ敬神と礼拝)を蔑ろにした事にあると考える(20,22,23章、安息日問題では、エゼキエルが一番関心があったらしい。15回取上げている。イザヤは6回、エレミヤは4回に過ぎない)

しかし、エレミヤも安息日に関しては厳格な姿勢を求めた。彼は「あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな」(エレミヤ17:21)と命じた。口語訳は「命が惜しいならば気をつけるがよい」と激越な表現をする。

捕囚から帰還した人々の間でも、安息日はデリケートな問題であった。自己本位な人々が、他の戒律に比べて余り罪責感を持たずに破れる律法だからである(殺人、姦淫、盗みなどと対比)しかし、この違反は、神の律法を骨抜きにし、礼拝の秩序を危うくする。その事に気づいたネヘミヤは、安息日の再建に蛮勇を奮った(ネヘミヤ10章、13章を参照)



興味深いのは「安息日の翌日」(レビ23:11、15、16)に重要な意味が与えられている事である「安息日の翌日」とは週の初めの日、私たちの主の復活の日のことである(2章で検討したい)

バビロニアの創造神話は、完成なって、主神マルドークに栄誉を讃える50の名を与えている。それは、いかにも人間を神格化した神話世界のお話である(さ.しずめ、あなたは良くやった)