使徒の働き7章8-19節

20070311        神はヨセフと共におられ イスラエル史概観Ⅱ

使徒の働き7章8-19節

主イエスは、アブラハムの子孫であることを誇る人々に、

「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい」(ヨハネ8:39)と、厳しく促しました。

わざと言う言葉は、誤解を招きかねませんが、神を信じることが人のなすわざです(ヨハネ6:29)

神を信じ、神が遣わしてくださったイエス様と向かい合って生きることです。

人間は、徹底的に傲慢な者です。

自分を誇るのも愚かなことですが、自分に誇りを見出せないと、何かしら代替を捜して自慢します。

ユダヤ人が「先祖アブラハム」を誇るのは、その典型です。

ステパノは、栄光の神がアブラハムに現れてくださった事実と共に、

神の祝福の約束が果たされるために、イスラエル民族が経てきた生々しい歴史を回顧しました。

神の恵は、今やイエス・キリストによって成就しましたが、

そのプロセスは、イスラエルの不信仰と不従順によって妨げられてきました。

ユダヤ人は安易に、先祖アブラハム・モーセ・ダビデを誇りますが、

ステパノが語るイスラエル史は明快です。

イスラエルは神の恵に応えて来なかった、神の恵みに値しないと論じます。

それにも拘わらず、神はイスラエルを見捨てないで導かれました。これが神の恵です。

どこの国の歴史にも、目を覆いたくなるような忌まわしい汚点があるものです。

自虐的だと言って、事実から目を背ける人々もいますが、直視する勇気を持たなければなりません。

預言者イザヤは、

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。

あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ・・・」(イザヤ51:1)と、勧告しています。

勇気をもって歴史の事実を直視する者は歴史から学び、

謙虚に学ぶ者は、必ず再生の希望を見出します。

ステパノの意図もここにあります。



Ⅰ族長たちはヨセフを妬み

アブラハムは信仰の第一世代です。

神の約束に望みを託して、故郷を離れ、長い間辛苦に耐えました。

その結果、彼は信仰を義と認められ、神の友と呼ばれました(Ⅱ歴代誌20:7、ヤコブ2:23)

アブラハムの子イサクは、争いごとを避ける平和な人であったと言われます。

三代目、イサクの子ヤコブは、才気煥発な人でした。

自分の利益には敏感で、事業を成功させましたが、自己中心な生き方を憚らない男でした。

相続問題では、母と結託して父と兄を欺きます。

自分を利用する伯父ラバンとの駆け引きでも一歩も譲りません。

彼は、与えられるままに四人の妻を迎えました。

このヤコブには、腹違いの息子たちが12人おりました。

彼らが、イスラエルの12部族の先祖となりました。

一家に四人の妻があり、異母兄弟が12人もいれば、家庭が円満にいく筈がありません。

ヤコブは、老いて儲けたヨセフを誰よりも溺愛しました。

父ヤコブの偏愛は、当然の事ながら兄息子たちの妬みと憎しみに油を注ぐことになります。

知恵と公平の欠けた愛情が、不幸の原因になることを忘れてはなりません。

兄たちは、ヨセフを荒れ野で殺そうとしますが、さすがに思いとどまり奴隷として売り渡します。

ステパノが「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました」と言う通りです。

この族長たちとは、ヤコブの子らアブラハムの曾孫です。

これが、イスラエルの誇る族長たちの家庭の現実です。

差別もあれば妬みもあります。憎しみもあれば殺意もあります。今日の世相の原風景ではないか。



Ⅱ神はヨセフと共におられ

しかし「神はヨセフとともにおられ、

あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、

パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました」(9-10)

兄たちの非情な行為は、17才の少年ヨセフに向けられました。

こうして、ヨセフのエジプトにおける奴隷生活が始まりました。

創世記39章から抜粋してみます。

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、

主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた」(39:2-4)

ヨセフは、異郷で奴隷の身ですが「主がヨセフとともにおられ」て、恵は周囲にも溢れました。

しかし“好事魔多し”と言います。

好色な主人の妻は、頼もしいヨセフに魅せられて毎日言い寄ります。

ヨセフは「このような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」と拒みます。

ヨセフの神と主人に対する誠実が、かえって女主人の逆恨みを招き投獄されることになりました。

しかし、神の恵みは獄中にも届きます。

「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。

ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった」(39:21-22)と、ある通りです。

こうして神は、

エジプトの王パロがヨセフを必要とする時まで、ヨセフを獄中に温存しました。

皆さんがよくご存知の、7年の豊作とそれに続く7年の飢饉の訪れる時までです。

やがて、神の時が訪れ、ヨセフに与えられた知恵は、パロの夢を解き明かします。

パロはヨセフを信頼して、やがて訪れる大災害の日に備えてヨセフを行政長官に任じました。

政治の舞台でも、神はヨセフと共におられます。

ヨセフの手腕はパロを富ませ、また周辺諸国の人々を飢饉から救うことになりました。

食物を買出しに来た人々の中には、ヨセフを奴隷に売った兄たちがいました。

彼らはヨセフの復讐を恐れましたが、ヨセフの扱いは寛大です。

ヨセフは「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです」と身分を明かします。

しかし「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」と慰めます。

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」と赦します。

(創世記45:4-5)みごとに、神の摂理を受け入れています。

それでも赦されたことを確信できない兄たちに対して、ヨセフは重ねて語ります。

「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。

それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

ですから、もう恐れることはありません。

私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう」と、懇ろに語りました。

(創世記50:19-21)

飢饉が契機となって、ヤコブの全家はエジプトに移住することになりましたが、

諺に“人間万事塞翁が馬”と申します。

イスラエル民族にとって、食物を求めて緊急避難したエジプト移住でしたが、

後に、大きな代償を払うことになります。

人生の幸運・不運とは、現在の事情だけでは計り知れません。

幸運を空しくして、自分を滅ぼす人がいます。

しかし、不運をバネにして未来を切り開く人もいます(トフラー、IBM社長の弁)

大事なのは、神が共におられて助け出してくださることへの信頼です。

いたずらにヨセフを誇る事は無意味なことです。

ヨセフと共におられ、ヨセフを助け出された神に信頼することを体得すべきです。



Ⅲヨセフの事を知らない別の王

エジプトに移住した世代は、ヨセフの業績に相応しい待遇を受けました。

典型的なのは、父ヤコブの葬列です。

夥しいパロの群臣・戦車・騎兵が連なりました。

この葬儀を見たカナン人は「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と評しています(創世記50:6-11)

しかし、時代は変わります。

エジプトでは、18王朝から19王朝に変わりました。

「ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位に」就きました。

これは、ヨセフの名声を知らないというよりも、

王朝が変わって、ヨセフを評価しない王の登場と考えてよいでしょう。

この王は、イスラエル人が受けていた優遇政策を奪い取っただけではなく、

一変して搾取と虐待を強行しました。

ステパノの言葉を引用するなら、

「この王は、私たちの同胞に対して策略を巡らし、

私たちの先祖を苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました」と述べています。

ステパノは、イスラエルの歴史を鋭く抉り出しますが、

悲観的に捉えているわけではありません。

17節の「神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって」という表現は、

神に信頼した希望に裏付けられています。

けれども、イスラエルの同胞には語らなければならないことがあります。

このような時代の変化を前にして、イスラエルは何をしてきたかという問いかけです。

この後で、もっと率直な言葉を聞くことになりますが、

とにかくステパノは、自分を取り囲んでいるイスラエルの同胞に語ります。

先祖たちは、何度愚かな失敗を繰り返してきたことかと。

それにも拘わらず、いつでも救いの御手を差し伸べてくださるのは神の恵みであったと。

“喉もと過ぎれば熱さを忘れる”と言いますが、

イスラエルも例外ではありません。

その結果、神の恵に安住して霊的に地盤沈下している自分たちに気付きません。

徒に「私たちに伝えられた慣例を変えてしまう」と騒ぎ立てるのが現状です。

ステパノが洞察した危機感を、残念ながらイスラエルは理解していません。

パウロは後に、ローマの教会に「夜は更けて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか・・・主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」(ローマ13:12-14)と促しています