20070225 栄光の神が現れ イスラエル史概観Ⅰ
使徒の働き7章1-8節
前章でステパノは、各地から集まって来た人々と激論を交わしました。
彼らは、ステパノが「知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができません」
すると彼らは、偽りの証人を立ててステパノを糾弾しました。
「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません」と叫びます。
自己保身・自己正当化のためには、何でもする浅ましい人間の本性が丸出しです。
日本では“ウソも方便”と言い繕いますが、
イスラエルの律法は「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と厳しく戒めています。(出エジプト20:16)
偽りは、神の名において、厳禁とされています。
彼らがそれを知らない筈はありません。
けれども、偽りは、万人の身近にある手っ取り早い道具です。
その結果、人は自分自身を卑しめます。
さて、議会に引き出されたステパノはどうかと申しますと、
「彼の顔は御使いの顔のように見えた」と描写されています。
こうしてステパノは、イスラエルの同胞を前に立ち、イスラエル史を概観する大演説を行いました。
彼は、先祖アブラハムに遡ってイスラエルの歴史をひも解き、
神の憐れみ深い導きと、イスラエルが繰り返した不信仰を明らかにして、
再び過ちを犯さないように警告しました。数回に分けて、私たちもイスラエル史を概観します。
Ⅰ栄光の神が現れ
ステパノは「兄弟たち、父たちよ。聞いてください」と呼びかけて、
「栄光の神が現れ」と語り出します(ギリシャ語原文の語順)
この語順は「初めに、神が天と地を創造して」世界が存在したように、
イスラエルの歴史は、栄光の神がアブラハム現れて始まった事を想起させます。
栄光の神、栄光とは神にのみ相応しい形容詞です。
私には「栄光」という言葉を十分説明することができませんが、
詩篇24篇は、万軍の主を「栄光の王」と讃えています。
そこでは、力の賞賛です。
私見ですが、パウロが愛弟子テモテに書いた言葉が、栄光のニュアンスに近いかなと考えています。即ち「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、
近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、
また見ることのできない方です。
誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」(Ⅰテモテ6:15-16)とあります。
ステパノもパウロと同様「人間がだれひとり見たことのない」神を認識していたと思います。
その上で「栄光の神がアブラハム現れ」と語り出しました。
「栄光の神が現れ」とは、
畏れ多くも「人間がだれひとり見たことのない」神と向かい合ったという大胆な発言です。
ステパノは、これがイスラエル民族の原点であり、アイデンティティーであると言っているのです。これは、イスラエルが選民である事だけを主張しているのではありません。
神に導き出されたのですから、神の前に責任があると、注意を喚起しているのです。
栄光の神は、アブラハムに、
「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」と命じました。
イスラエルの第一歩は、神と向かい合い、神の言葉に聞き、従う決断から始まりました。
Ⅱアブラハムの生涯
何故、アブラハムは住み慣れた故郷、メソポタミアの地を後にしたのでしょうか。
神の命令とアブラハムの服従の関係には、相応の理由がある筈です。
モーセの後継者ヨシュアは、その理由をイスラエルの民に明らかにしています。
その証言によれば、
「あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、
昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。
わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、
カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた」(ヨシュア24:2-3)と言う事です。
誰にでも、故郷には名状しがたいものがあります。
しかし、神を敬うアブラハムにとって、
偶像礼拝に支配された故郷には、居場所がなかったようです。
400年ほど前(1620年)メイフラワー号でアメリカに移住した清教徒たちも、
信仰の自由を求めて大海に乗り出す危険を冒しました。彼らは、いわば故国を捨てた人々です。
アブラハムの出国は二段構えでした。
先ず、父テラに従ってハランに行き、父の死後カナンの地に移って来ました。
アブラハムは、カナンの地に移住した時75才でした。
新天新地を求めて75才の挑戦です。
神は、子どものなかったアブラハムに対して、
この地を、彼とその子孫に財産として与えると繰り返し約束されました。
(創世記12:1-3、13:14-17、15:1-7)
アブラハムは、この神を信じて義とされたのです(15:6)
アブラハムの生涯は祝福され、その家畜なども増加しましたが、
神は「足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした」
彼は生涯、寄留者のように一片の土地も所有しませんでした。
「さすらいのアラム人」(申命記26:5)と呼ばれる所以です。
唯一の例外は、
糟糠の妻サラを葬るために、ヘテ人エフロンからマクペラの畑地を墓地として購入したことです。
この墓地は、後に、エジプトへ移住して客死したヤコブやヨセフにとっても、
神の約束を確認する重要な意味を持ち続けました。
モーセは出エジプトを果たした時、ヨセフの遺言に従い、彼の遺骸を担ぎ出しています。
(創世記50:25、出エジプト13:19)
アブラハムに与えられた神の約束は確かなものですが、
決して安易なものではありませんでした。
「彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される」という制約つきです。
大概の人は、忍耐することが苦手です。
それでも確かな希望があるときには、苦節何十年と言うことになります。
アテネ・オリンピックで、20年ぶりに銀メタルを獲得した射撃の選手がいました。
希望を抱いて忍耐する者が、
自分の生きているうちに、希望を実現したいと願うのは当たり前の事です。
しかし、アブラハムの場合は、400年先の希望です。
途方もない時間です。一代で叶えることはできません。
これに比べると、私たちの人生設計は、近視眼的・自己中心的です。
余りにも目先のことだけに捉われていないでしょうか。
もし、人がこのように遠く将来に希望を抱いて現在を生きることができるならば、
科学技術のあり方、環境汚染の問題の取り組み方など・・・人間の営みは根本的に変るに違いない。
(米国は京都議定書に不参加)
Ⅲ割礼の契約
さらに「神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました。
やがて、アブラハムにイサクが生まれました。
彼は八日目に、イサクに割礼を施しました。
それから、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の族長が生まれました」
75才で子どものなかったアブラハムですが、
100才に及んで約束の子イサクを与えられると、イサクに割礼を施して神の契約に応えました。
神は、イサクの誕生に先立って、15章の契約(15:18)を17章で更新(17:1-19)しています。
それは、先の契約が不備だったからではありません。
アブラハムが躓いたからです。
16章で、約束の子を待ちきれなくなったアブラハムは、
妻サラの同意を得て、女奴隷ハガルによって子を儲けました。
これは、アブラハムにとって苦肉の策でしたが、信仰の行為ではありません。
その結果は悲惨でした。
後に、イスラエルの娘たちの憧れとされたサラが嫉妬に狂います。
ハガルは、奴隷の身分を忘れて傲慢になり、女主人を見下します。
アブラハムは、成す術を知りません。平和な家庭は崩壊の危機を迎えました。
その間、13年の歳月が空しく費やされました(16:16・アブラハムは86才、17:1・99才)
アブラハムがこの苦難の中にあった時「主はアブラハムに現れ」(12:7、18:1)ました。
打ちしおれ、自信喪失していたであろうアブラハムに、栄光の神の顕現です。
神は、アブラハムに大胆な信仰を期待します。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と。
この時、彼は二つのしるしをいただきました。
一つは、アブラムという名をアブラハムに改名しました。
もう一つが、わが身に刻んだ割礼のしるしです。
神が、この契約で目指していたのは、単なるイスラエル至上主義ではありません。
契約の真髄は「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」ことにあります。
そのしるしが割礼でした。
神は、この契約を、
「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない・・・あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、
あなたがたの肉の上にしるされなければならない」と宣せられました。
これほど割礼の意義は大きいのです。
それ故、イスラエルで割礼が形骸化された時、預言者エレミヤはこれを厳しく糾弾しています。
(エレミヤ9:25-26)
ステパノの前に立つユダヤ人たちは、
割礼を受けて「アブラハムの子」である事を自負する人々です。
しかし、主イエスは
「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい」と言われました。
即ち、神と向かい合いなさいと教えたのです。
最後に「栄光の神が現れ」という言葉について、もう一言。神は賛美の中に現れ、祈りの中に臨在し、謙る者と住いを一つにされます(詩篇22:3、マタイ18:20、イザヤ57:15)