使徒の働き6章8-15

20070211          御霊と知恵に満ち

使徒の働き6章8-15節

前回私達は、エルサレム教会に7人の世話役が選び出されたことを学びました。

その経緯を、簡潔に振り返ってみます。

教会は、力と愛の生命力に満ちていましたが、配慮の届かない片隅がありました。

教会内に、ヘブル語とギリシャ語という言葉の障壁があったからです。

“援助の食物が、公平に分配されていない”と、苦情が持ち上がりました。

“たかが食物の事”と、見過ごすことはできません。

俗に“食物の恨みは怖い”と言います。

適確な対処がなされないと、教会の分裂を引き起こしかねません。

使徒たちは流石です。これを優先課題としました。

公平な分配ができるように、早速、奉仕担当者の人選が行われました。

その目的は、公平な分配もさることながら「神のことばをあと回しに」しない事です。

福音の宣教が滞らないように「祈りとみ言葉の奉仕」が妨げられないようにと決意したのです。

人選に先立つ合意は、いわゆる能力主義・適材適所の論理だけではありません。

「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」の選出です。

教会の職務(神の業)を遂行するためには、御霊に満ちている(御霊を崇める)ことが不可欠です。

神の賜物として知恵も必要です。

さらに、これを生かしている実績も大切です(主に従う意欲と考える)

「こうして、神のことばは、ますます広まって行き、

エルサレムでは、弟子の数が非常にふえて行った。

そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった」と記されています。

祭司たちの入信という記録は、教会が新たな局面を迎えたことを物語っています。

著者ルカは、ステパノたちが食物分配の奉仕をどのように果たしたかには興味がありません。

ルカの筆は「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行ない」と飛躍して、先に向かいます。

ルカはさらに、この時選ばれたステパノとピリポの宣教活動を7-8章で特筆しています。

ステパノやピリポは、早速その委ねられた当初の役割(給食係)を越えた活動を始めています。

縄張り争いの激しい世界なら“頼まれもしない事をやって出しゃばりだ”と非難されそうです。

私は、ステパノやピリポのような人々を、敬愛して「ヨセフの子」と呼ぶように提唱いたします。

イスラエルの先祖ヤコブは、愛する息子ヨセフの将来を預言して、

「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える」(創世記49:22)

と祝福しました。

これは、境の垣根を越えて、隣人を脅かすことではありません。

彼に与えられた神の祝福が溢れ出て、垣根越しに隣家を潤すことです。

教会は、必要に迫られて職務の分担をしましたが、拘束的な組織ができたのではありません。

有機的で建徳的な交わりへと成長しました。

こうして、宣教の働きは、使徒たちだけでなく、みんなで担い始めました。

新しい時代の幕明けです。



Ⅰ新しい局面の展開

これまでキリスト教会は、ユダヤ人社会から、民衆を惑わす新興宗教の類とみなされてきました。

祭司や律法学者たちは、使徒たちの宣教活動を苛立たしく思って、執拗に妨害を繰り返しました。

幸い、穏健なガマリエルの言葉(5:35-39)に説得され、事なきを得ました。

しかし、この時点で、多数の祭司たちがキリスト教に入信した事は、状況を一変させました。

ユダヤ教の社会秩序から見れば、彼らの存在基盤を脅かすことになりかねません。

特に、ステパノの主張は、神殿中心の祭儀や律法遵守を蔑ろにしているように聞えます。

伝統的宗教の擁護者たちには、これは見過ごせません。

その上、エルサレムは門前町です。

神殿祭儀が衰亡すると、住民の生活も成り立たなくなります。

ユダヤ教の指導者たちは、今や我慢の限界に達したようです。

(エペソでは、アルテミス神殿を飯の種とする銅細工人の扇動で騒動が起こる。使徒19:23-28)

そのなかでも「いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、

クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、

ステパノと議論した」と言われています。

リベルテン(リベルティノス)という語は、英語のリバティー(自由な、自由)の語源です。

その語義は、奴隷から解放された者を指したようです。

彼らは、離散していた国々から戻ってきた人々ですから、

エルサレム神殿とユダヤの宗教伝統に対して遥かなる憧れが強く、

誰よりも思い入れが強くて妥協しない人々でした。

彼らは、独自の会堂を所有していたとも言われています。

この人々の目には、神の都エルサレムは、新興宗教の活動で荒らされていると見えたようです。

ですから、それを放置しているユダヤ当局者たちは、無責任な人々に見えたでしょう。

それで、彼らは、ついに我慢ができなくなって、爆発したのではないでしょうか。

こうして、ステパノに論争を挑むことになりました。

しかし「知恵と御霊によって語っている」ステパノに、対抗できる筈がありません。

論争の論点は、明らかにされていませんが、7章のステパノの言葉から推測することができます。

この論争は問題の解決には至らず、むしろ混乱を増幅させました。

終わりは、いつでも新しい始まりとなります(ルカ20:1-44)



Ⅱいつか来た道

11節以下は、福音書の最後の場面を読んでいるような錯覚を覚えます。

何故なら、イエス様に加えられた不法な言動が、ステパノに再び繰り返されているからです。

順にたどってみます。

11節で、彼らは、先ず周囲の人々を唆して偽証させます。

「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせます。

これは、まったく根拠のない言いがかりです。

しかし、顧と、神の御子イエス様に、繰り返し浴びせられた非難の言葉です。

言うまでもない事ですが、イエス様ほど父なる神を尊んだ方はいません。

しかし、敵対者が声を大にして謗るのは、二言目には「神を冒涜した」という非難です。

(マタイ26:65、ルカ5:21)

イエス様は、イスラエルが神格化していたモーセの律法の解釈に大胆なメスを入れました。

それは、人々を律法主義の間違った拘束から解き放ち、神の光の下に解放するためです。

たとえば安息日問題です。

律法学者たちは、安息日を大事にしたつもりで“何も出来ない日”に貶めました。

しかし、主イエスは「安息日は人のためにある」(マルコ2:27)と言われました。

主は、安息日を何もできない日ではなく、真に有益な善を行う日と捉え直しました。

礼拝に始まり、躊躇わずに生命救助にも及ぶ豊かな日です。

それさえも、頑なな伝統主義者には、単なる律法違反としか見えませんでした。

次に12節「民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った」これは、人の後ろから糸を引く卑劣なやり方です。

彼らには、真理も正義もありません。

ですから、数を頼み力ずくで事を行います。

これは、暫く前、主イエスに行った暴挙の繰り返しです。

人々は、主イエスに石を投げつけて町から追い出した事があります。

或いは議会に引っ立てて来て晒し者にしました。

逮捕拘禁とは、謂れのない辱しめです。

しかし、議会の見せ掛けの権威は、イエス様に何の影響も与えませんでした。

ステパノの場合も同様です。

13節では、偽りの証人たちを立てて、

「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません」と言わせます。

聖なる所というのは、エルサレム神殿のことです。

律法とは、そこで行われる習慣化した祭儀と日常的なもろもろの取り決めです。

主イエスの世界は、場所や文字に制約されないことは明らかです。

けれども、イエス様は弟子たちに、革命的な変化を求めませんでした。

ですから、弟子たちは、ペンテコステ以後もエルサレム神殿に集い、祈りの時を持ってきました。

律法をなおざりにした事実はありません。

これも謂れのない非難です。

偽りは大罪ですが、彼らはステパノを陥れる為に手段を選びません。

偽りの証人を立てて、なり振りかまわず攻撃を仕掛けてきました。

思えば、イエス様も、次々に登場する偽証人には悩まされました(マタイ26:59-61)

しかし、化けの皮は剥がれるものです。

優柔不断なピラトでさえも、偽りに証拠なしと判断を下しています。

主イエスは

「もし世があなたがたを憎むなら、

世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(ヨハネ15:18)と言われます。

ステパノは、主イエスに従い、主イエスと同じ厳しい道を歩むことになりました。

最後に14節「あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、

モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう」と危惧します。

この人々の危機感に目を向けてみましょう。

アイデンティティー(自己同一性、自分が何者かを裏付けるもの)の確立などと言うと、

たいそうな事を取り上げているように聞えます。

しかし、その多くは伝統文化(平たく言えば習慣)に支えられているだけです。

例えば、何のためにするのか分からない場合でも、

“私たちは昔からそうしてきた”という言葉は、金科玉条の重さを持っています。

ここに、慣例を変えることの難しさがあります。

頑迷な人々は、偽証人を用いてステパノを非難し、

「慣例を変えてしまう(アラッソウー)」と、危機感をあおりました。

いじめや村八分、或いは迫害が起こるのは、

多くの場合、異質と思われる事柄を危惧して拒む、人の心から生じるのではないでしょうか。

ステパノの主張は、新しい主張ではなく、本来の姿に戻すことでした。

パウロは、ローマの教会に、無知で傲慢な人間の現実を厳しく告発しています。

即ち「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(ローマ1:23)と。

人は、歪んでいる自分を容易に認めず、自分が変えられる事を頑なに拒みます。

しかし、私達の確信はパウロと共に、

「誰でもキリストにあって、新しい人に変えられる」(Ⅱコリント5:17)ことです。