使徒の働き6章1-7節

20070128          祈りとみ言葉の奉仕

使徒の働き6章1-7節

ペンテコステ以来、エルサレム教会は爆発的な成長を続けてきました。

信者の数は2章で3000人(2:41)4章では5000人(4:4)と増加し、止まるところを知りません。これは喜ばしいことですが、人数が増加すれば、新しい課題が生じるのは避けられません。

もし、今朝の礼拝に、通常の倍の人々が集まったら如何でしょう。

100人も集まったら、ちょっと興奮させられますね。

しかし、駐車のスペースが足りません。

玄関では、スリッパが不足するでしょう。

受付では、聖書や賛美歌、週報が不足するでしょう。

礼拝堂では、椅子が不足します。お世話役が動き回って、みな落ち着いた気分になれません。

昼食の用意も足らず、さて何を買って来ようか・・・と対応に追われます。

大盛況とは、興奮するほど嬉しいものですが、後に心に空しい風が吹き込んでくる事もあります。

それでも、新しい問題が起こるのを積極的に受け止めれば、それは飛躍の転機となります。

今まで、千年一日のように過ごしていた所に、変化の兆しが見えたと受け止めるべきでしょう。

確かに、何事も、今まで通りが一番気楽です。

しかし、新しい局面を迎えて、聖霊の賜物である知恵が生かされる時、

教会は、生き生きとした発展を見ることができます。

ですから、問題が生じ、変化に直面することを恐れる必要はありません。

変化に直面したら、祈り深く、愛と知恵を働かせて克服すべきものです。

エルサレム教会は、これまでも力強い神の御手に守り導かれてきました。

同時に、この世の迫害などに鞭打たれて、不屈の信仰を養われてきました。

3章で、足の不自由な男が癒されて神を賛美しました。

すると“勝手な事は許さない”とばかり、公権力が弾圧を始めました。

けれども、教会は屈しませんでした。

この時、教会は、新しい喜びを発見しました。

人間的なものに従うよりも、神に聞き従うべきだと確信したのです。

この世の不確かな権力よりも、永遠に変わらない神に従う事が正しいと、大胆に告白しました。

5章の、アナニヤとサッピラの偽善的行為は、教会の中で起こっただけにショッキングでした。

しかし、その時も、教会は挫折しませんでした。

むしろ、教会は霊的に吟味されて、更に敬虔な人々の集まりとなりました。

試練は、神の教会を純粋で不屈なものへと育て導いてくれます。

熱帯雨林の巨木は、根を張る必要がないと言われます。

しかし、砂漠の椰子の木や、強風の吹きまくる海岸の松の木などは、したたかに深く根を張ります。

神の教会は、神の保護の下にありますが、ひ弱な温室育ちではありません。

神の教会は、いつの時代でも「患難・忍耐・練達・希望」(ローマ5:3-4)の階段を昇ります。



Ⅰ新しい問題

エルサレム教会に生じたのは、食物の公平な分配の問題でした。

「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、

ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。

彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである」と説明されています。

エルサレム教会には、ギリシャ語を使う人々とヘブル語を使う人々がいました。

ギリシャ文化の影響下で生まれ育った人々は(ヘレにスト)祖国の言語に不自由でした。

今日でも、帰国子女の多くは、外国語に堪能ですが、母国語に不自由な場合があります。

言葉の壁が、教会内で意志の疎通を欠いたようです。

その結果、食物分配の上で公平な配分が損なわれたようです。

「なおざりにされていた(パラセオーレオー)」という言葉は、悪意や意図的なものはありません。

配慮が届かず、見過ごしにされた寡婦たちがいたようです。(よくある事です)

そこで、ヘレニスト側から苦情の声が上がりました。

教会の中で「なおざりにされていた」とか「苦情を申し立てた」という表現を聞くと、

穏やかではありません。

“教会でもそんなことがあるの”と訝りたくなります。

しかし、視点を変えてみましょう。

いつの時代でも、金持ちの気まぐれや、一時的な善意の施しはありました。

しかし、当時の社会で、福祉問題を権利として訴えることのできる場は、教会の他にありません。

ですから、これは、公平な分配を当たり前の事とする愛の交わりの中でだけ起こる問題です。

けれども、このような問題が生じた時、対応を誤ると躓きとなり禍根を残します。

たとえば、よく聞く言葉ですが「感謝が足らない」と切って捨てるなら如何でしょうか。

正論ですが、苦情の声を押し殺すのは、賢い方法ではありません。

教会は面目を保つでしょうが、たちどころに愛の生命を失います。

この言葉には、福祉はおこぼれというセンスが垣間見えるからです(近年まで福祉おこぼれ論)

今まで、愛だと考えられてきたものが、実は余りものの施しに過ぎなかったと、誤解を与えます。

このとき使徒たちは、この問題解決を最優先課題と受け止めました。

彼らは「私たちが神のことばをあと回しにして、

食卓のことに仕えるのはよくありません」と言って、信者たちを集めました。

「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」

これは、うっかりすると、誤解され易い言葉です。

しかし、決して、食物分配の問題を卑しめた言葉ではありません。

使徒たちは、この問題を何よりも優先課題だと考えているのです。

使徒たちの危機感は、この問題を円満に解決することができなければ、

神の言葉を後回しにせざるを得ないというほど、緊迫した認識を示しています。

食物分配の公平な解決を得るために、相応しい担当者を選ばなければ、

一番大切な福音宣教が停滞してしまうと、危機感を示したのです。

換言すれば、誰か適当な人々が得られなければ、福音宣教を後回しにしてでも、

使徒たちが自ら食物分配に従事せざるを得ない、と決意を語っています。

神の言葉の宣教は大儀です。

しかし、使徒たちには、愛の奉仕が滞らないように配慮する見事なバランス感覚があります。



Ⅱ仕えるために選ばれた人々

このような必要に迫られて、教会は七人を選び出すことになりました。

繰り返しますが、ここでの人選は、福音宣教が滞らないためです。

その方法は明らかではありませんが、最早、くじ引きの段階ではありません。

使徒たちは、教会が良く吟味して主体的に選び出すように命じています。

ここには執事(ディアコノス)という表現はありませんが、

選ばれた人々が、教会役員の先駆けとなったことは明らかです。

選出の基準は「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い」ことでした。

この基準は、きわめて重要で実際的です。

主イエスが「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、

あなたがたは力を受け・・・地の果てにまで、わたしの証人となります」と命じて、

使徒の働きはスタートしました。

先にはアナニヤ事件もありましたので、心から聖霊を敬う人々が期待されるのは当然です。

問題解決には知恵が求められますが、私たちの世界では、自己中心的な知恵が蔓延しています。

その知恵が、今なお世界を悩ませています。

知恵は真理の御霊からいただくのでなければ、公平を欠き、正義を汚し、愛を裏切る事になります。

神を畏れることが知恵の根源です。

「評判の良い(マルトゥレオー)」と訳された原語の意味は「証しする」です。

この語から証人・殉教者という言葉も派生しました。

ここでは受動態ですから「証明された・実積のある」という意味です。

世には、前評判の高い人がいますが、評判倒れの人も少なくありません。

ここで選ばれた人々は、前に申し上げた、

「ドキモス(熟練・練達、Ⅱテモテ:15)」という言葉を偲ばせます。

換言すれば、神の言葉を聞いた通りに信じ、信じた通りに生きた人のことです。

「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び」出しました。この七人の名前がみなギリシャ名であることは、必ずしもヘレにストという証明にはなりませんが、少なくともギリシャ語を良く理解できたと人々と考えられます。

言葉の壁を越える、問題解決の知恵であり配慮でした。

著者ルカは、この選択が適格であったことを論証しています。

ルカは、7-8章を、ステパノとピリポの物語に費やしています。

しかも、彼らの働きは、当初の食物分配の枠を越えています。

それは、福音宣教の最前線において、後々まで語り継がれる目覚しい活動でした。



Ⅲこうして神のことばは

「こうして神の言葉は、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった」と展開します。

教会は新しい問題に取り組むことによって、組織的にも充実しながら前進します。

きっかけは、苦情から始まりました。

しかし、豊かな人材が備えられて、福音宣教は遅滞なく進められました。

ここで特筆すべきは「多くの祭司たちが次々に信仰にはいった」ことです。

祭司たちは、敵の側にいた人々です。

ここでもまた、一つの壁が崩れたと言えます。

今日も、教会を取り囲む問題はたくさんあります。

グローバルな点からみると、平和の問題、環境汚染問題、飢えの問題、核兵器の問題、外国人や弱者の差別問題、倫理観の喪失、家庭内でも老いの問題や子供の虐待・・・など山積しています。

どれ一つとっても片手間では解決できないほど大きく、

どれ一つとして後回しにはできない大事なものばかりです。

同時に、御言葉と祈りの時と場所は、奪われてはなりません。

それには、教会員皆さんの賜物が、適材適所で用いられることです。

使徒たちが問題に取り組んだ知恵を学び、

私たちも問題を解決・克服する知恵と勇気を養いたいものです。

危機を乗り越える時、福音宣教には、無限のチャンスが開けていきます。