使徒の働き5章17-42節

20070121           新しい喜びの発見

使徒の働き5章17-42節

今年最初の説教をさせて戴きますので、少し振り返ってみます。

ルカは、初代教会が成長路線を進む最中に、思いがけない挫折感を味わった事を記録しました。アナニヤとサッピラという夫婦の偽善的な行為によって、教会が深い悲しみを経験したことです。霊的なバブルの崩壊です。著者の心中は、断腸の思いだったことでしょう。しかし、教会は、それで立ち往生したわけではありません。それをも糧とし、失敗を乗り越えて前進していく姿が描かれています。

本日は長い聖句を朗読していただきましたので、始めに前半部分を要約いたします。エルサレムでは、病む者たち・苦しむ者たちが使徒たちを通して癒されました。その結果、人々の関心は、ますます教会に集まるようになりました。しかし、喜べない連中がいます「大祭司とその仲間たち」です。彼らは「ねたみに燃えて立ち上がり」使徒たちを捕えて投獄しました。動機は妬みです。嫉みのエネルギーは、測り知れない力を発揮するものです。骨を腐らせると言います。

しかし、その夜、主の使いは使徒たちを牢から解放してくださいました。そして「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と命じます。使徒たちが救出されたのは、安全な所へ逃げるためではありません。さらに、福音の宣教を進めるためでした。ですから、使徒たちは「夜明けごろ宮にはいって教え始め」ています。宣教が、彼らの朝一番の仕事です。

何も知らない大祭司たちは、使徒たちを議会に引きずり出して、制裁を加えようとしました。しかし、獄舎が空っぽなので当惑しています。そこへ連絡がはいりました。「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と。こうして、使徒たちは、再び議会に引き出されることになりました。

大祭司は相当頭に来ているようです。言うことが支離滅裂です。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか」と責めます。

「あの名によって」とか「あの人」という表現は、彼らの露骨な嫌悪の感情表現です。イエス様の名を口にするのは、忌々しく耐えられないという心境なのでしょう。

この危険をはらんだ時でも、使徒たちの応答は明快です。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です」と、大胆に論じました。

こうして、大祭司たちは、一番苦手なペテロの説教を、再び聴かされることになりました。即ち「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせた」と。彼らの理不尽な怒りは心頭に達し「使徒たちを殺そう」と決意します。イエス様を殺した連中は、これまで、殺意だけは抑えてきました。しかし、いま再び、その弟子たちをも殺そうと決意したのです。一触即発の危機です。この不穏な状況を見過ごすことの出来ない人がいました。「すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人」です。



Ⅰガマリエルの仲裁

パリサイ人はみんな悪役のように誤解されがちですが、決してそんなことはありません。夜陰に紛れて、イエス様の教えを聞きにきたニコデモは、公平な判断が出来る人でした。自分の墓を、主イエスの亡骸を埋葬するのに役立てたアリマタヤのヨセフもパリサイ人です。律法学者ガマリエルは、穏健なヒレル学派の中にあって、ひときわ声望の高い学者でした。

パウロは「律法による義についてならば非難されるところがない」(ピリピ3:6)と自負しました。そのパウロが「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け」(使徒22:3)と、語ります。ガマリエル門下に学んだことは、パウロにとっても誇りに価したのです。

ラバン・ガマリエル(通常のラビと区別された尊称)は、周囲の連中がいきりたち、流血の惨事を引き起こしかねない時にも、冷静沈着で公平に対処しています。彼はイスラエルの同胞に向い「この人々をどう扱うか、よく気をつけてください」と呼びかけます。いかにも学者らしく、使徒たちの問題を歴史的な考察によって円満に収めました。ガマリエルは、人々の記憶に新しいチゥダとユダの反乱を取り上げて、同胞を説得しました。(この二人の名前や時代には錯誤があると考える者もいるが、当時、ローマ支配下にあることを潔しとしない愛国的なユダヤ人は、次々に蜂起して反乱を試みた)

極端な声を上げる者は、暫くの間、人々の耳目を集めます。

しかし、時間とともに淘汰されていきます(独裁者や新興宗教の教祖などが典型)ガマリエルは「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」と警告しました。ガマリエルは、神に信頼するイスラエルには、自浄能力があると確信していました。ですから、性急に判断を下さず、神の裁きに委ねなさい。

早まって無益な血を流してはならないと、道理を説きました。ガマリエルが、イエス様に対して、いかなる私的見解を持っていたか知ることはできません。しかし、彼の公正な判断は、使徒たちを危険から救出することになりました。これは、神がすべてを治めておられることの証です。神は必要なら、敵の中からでも助けを引き出すことができます(モーセをパロの娘が救出)



Ⅱ使徒たちの新しい喜び

ガマリエルに説得された人々は、よほど忌々しかったのでしょう。「使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放」しました。罪のない者たちを、むち打つのは不当です。使徒たちの肉体には苦痛だったことでしょう。しかし、この時、使徒たちは未だかつて経験したことのない新しい喜びにあふれました。彼らは「御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」のです。「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続け」ました。

主イエスは、十字架にかかられる前夜、弟子たちに語られました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)と。それでも不安におののく弟子たちに、重ねて言われました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びで満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(ヨハネ16:22)と約束されました。

喜びは、希望とともに人生の力です。パウロは「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)と教えています。喜びの真価は、その深さと永続性にあります。私たちの平素の喜びは、次に起こる恐れや悲しみ・失望や不安にかき消されがちです。永続的な喜びを日常生活の中に見出すことは、ほとんど不可能です。ですから、詩人は「主をおのれの喜びとせよ」(詩37:4)と歌いました。ネヘミヤも悲しむ民衆に「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」(ネヘミヤ8:10)と励ました。これは、口にするほど容易なことではありません。信仰の奥義です。そして今、使徒たちは、未だかつて知らなかった喜びに到達しました。

ペテロは、弟子仲間を代表する潔い男です。しかし、イエス様が逮捕された時、心が恐れに支配されて主イエスを三度も知らないと偽りました。後に、彼は自分の不甲斐なさを知り激しく泣きました(ルカ22:62)この場面は、スペインの建築家ガウディーが“石の聖書”を作り出そうとして設計し

聖書の場面を想起させる彫刻を無数に取り入れたサグラダ・ファミリア教会(今なお未完成)の正面玄関に置かれています。あたかも、悔い改めが第一歩だと語っているかのようです。そういう意味では、ペテロは悲しみの深さを経験した者です。

しかし、この時の使徒たちは、ペンテコステを経験した者たちです。以来、恐れを忘れてキリストを宣べ伝え、教会は躍進を続けてきました。怖いもの知らず、得意の絶頂にありました。

しかし、新しい困難に直面しました。福音宣教を禁じられて、むち打たれたのです。世には、追い風を期待する人々がいますが、時代の潮流によるチャンスは長続きしないものです。宣教は、使徒たちの成功を妬んだユダヤ人たちによって妨害されました。

しかし、ここからが使徒たちの真骨頂です。彼らは、追い詰められて新しい喜びを発見しました。イエス様が「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」と言われたように、今まで知らなかった喜びです。即ち「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜び」としたのです。「御名のためにはずかしめられるに値する者」とは、平たく言えば“キリストの弟子として、やっと一人前になれた”という実感です。使徒たちは、主イエスと同じ扱いを受けた事を喜んでいます。弟子が、主のレベルに引き上げられたのです。

後にペテロは「キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」(Ⅰペテロ4:13:16)と書いています。

もし、苦しみさえも喜びに変える霊的なエネルギー変換があるなら、喜びは無限です。この日、使徒たちは、新しい喜びの源泉を発見しました。彼らが発見したのは、主イエスに従い、主イエスと共に辱しめられることの中に生まれる喜びです。この新しい喜びは、神の賜物です。神が与えて下さる喜びは、誰も奪う事ができない喜びです。

最後にもう一言。“新しい喜びの発見”と題しましたが、新しいとは、上からという含みを持つ言葉です(ヨハネ3:3)