使徒の働き5章1-11節

20061126           教会を聖める聖霊

使徒の働き5章1-11節

本日の聖句は、キリスト教会が初めて遭遇したショッキングな出来事を物語っています。

アナニヤとサッピラという夫婦の突然死です。

アナニヤは「主は恵み深い」という意味です。サッピラは「美しい」というほどの意味です。

しかし、彼らの結末は、美しいとは言えません。悲惨なもので、主の峻厳な事を想起させます。

前章に記されたバルナバの行為は、教会の中で貧しい人々の慰めとなっただけではありません。

潜在的な篤志家たちを励まして、教会が新しいエネルギーを放出する契機となりました。

バルナバ(慰めの子)の行為は、善意の人々の心を動かし、その模範に倣う者が起こったでしょう。

しかし、残念ながら、種を蒔かなくても雑草が生るように、偽善という毒麦も同様です。

平和と愛が漲る教会の中で、アナニヤとサッピラ夫婦は、分不相応な功名心を求めたようです。

信仰も愛も成熟していないのに、背伸びをして名声を求め、神を見失った不幸なケースです。

聖書は「互いに愛し合う」ように繰り返し教えています。

その愛は極めて実践的なものです。しかし、決して強制される類のものではありません。

キリストの教会は、愛の助け合いを大切にしましたが、共産主義的な共同体にはなりませんでした。

この事件の教訓によるものと考えることができるかもしれません。



Ⅰアナニヤとサッピラ

アナニヤが、バルナバに影響されたのはたしかなようです。

アナニヤも思い切って「その持ち物を売り」はらいました。

しかし「妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき(ノスフィゾー)」ました(テトス2:10)

一部分残した事を悪いとは言えませんが、ここには、欺きの意図があったようです。

彼らは「ある部分を持ってきて、使徒たちの足もとに置き」ました。これも中々出来ない行為です。

この夫婦は、その計画から実行に至るまで見事なチーム・ワークを演じています。

夫唱婦随と言いますが、二人はこの事に関して一心同体です。

仲の良い夫婦は少なくありませんが、金銭問題で一致を見ることは容易ではありません。

その意味では、ここまで、彼らは見事な調和を見せてくれています。

しかし、彼らは、神が創造の初めに、夫婦に求めた関係を満たしているでしょうか。

神は、人間関係の根幹となる夫婦の関係を「ふさわしい助け手」と規定されました。

アナニヤとサッピラを、互いに「ふさわしい助け手」(創世記2:18)と呼ぶことができるでしょうか。

キリスト者にとって、従順というのは大切な徳目の一つです。

パウロはエペソ人への手紙で「妻たる者よ、夫に従いなさい」と、繰り返し勧告しています。

子供たちには「両親に従いなさい」と教えました。

奴隷には「主人に従いなさい」(エペソ5:22-6:5)と命じています。

ペテロも「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)と教えました。

これは、女大学の“幼くしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え”(貝原益軒)という服従とは本質的に違います。

キリスト者は、主のために、親に従い・夫に従い・上司に従い・国家に従う者です。

決して無条件な盲従ではありません。

日常生活では、真理・公正・正義・愛などのバランスがくずれることがよくあります。

その時「ふさわしい助け手」という関係概念が役割を果たします(昨日の報道は泥酔夫が妻を轢く)

神が創造において意図された「ふさわしい助け手」という関係は、あらゆる人間関係を貫きます。

夫婦関係だけではなく、そこから派生する親子・兄弟・友人・社会・・・の関係に及びます。

この関係が正しく機能しないと、悲惨な結果になります。

ダビデがユダの王になる前のことですが、カルメルという地にナバルという金持ちがいました。

ナバルは愚かで恩知らずな男でした。

彼は、ダビデが助けを求めた時、ダビデを悪し様に罵り、その怒りを引き起こしました。

ダビデも虫の居所が悪く(直前にサムエルが死ぬ)激怒して暴発寸前の危機におかれました。

危うく流血の惨事になるところでした。

この危機を回避したのは、アビガイルという知恵のある女性でした(Ⅰサムエル25:31)

残念ながら、アナニヤとサッピラの間では、このような役割が作用しませんでした。

ヤコブは「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(1:15)と警告しています。

二人の分を超えた名声欲が、神を欺き、死という結末を刈り取ることになったようです(ヨハネ5:44)



Ⅱペテロの洞察

この時、ペテロは、アナニヤの行為の背後にサタンの働きを見抜きました。

「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか」と訊ねます(共同訳は、ノスフィゾーをごまかしたと訳出)

顧と、ペテロも、サタンに陥れられたことがありました。

ペテロが、イエス様に向かって「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した直後です。

世界が造られて以来、初めての発見であり告白でした。

主イエスもお喜びになりました。

ペテロは誉められて、得意の絶頂にありました。

そして、自分の言葉に重きを置き、イエス様の言葉を否定します。

その時、イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)と叱責されました。

あれは、終生忘れることのできない、苦々しい思い出です。

ペテロは、アナニヤの行為を見過ごすことが出来ません。

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか」と詰問します。

そして「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と厳しく指摘しました。

「サタンに心を奪われ」とは、直訳すると、サタンが心を満たすという意味です。

今まで、教会とキリスト者の心を満たしてきた方は聖霊でした。

サタンは4章で、公権力を用いてペテロたちに厳しい弾圧を加えましたが、教会は挫けません。

弟子たちは、果敢に立ち向かって、一歩も後退しませんでした。

すると、巧妙なサタンは、作戦を変更して教会に襲い掛かりました。

「畑に毒麦をまく」ように、教会を内側から腐敗させる手段に出たのです。

真理の柱である教会に、偽りや自己満足を持ち込んで、その純粋性を奪うことです。

迫害のように、外からの攻撃は、敵の正体が明らかですから見分けるのが容易です。

しかし、内側に蒔きこまれた腐敗の種を見出すことは容易ではありません。

イエス様は「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)と警告されました。

ペテロは、聖霊の知恵に導かれて、アナニヤの行為が似て非なるものであると見破りました。

神への感謝や人々への愛とは異質な、偽善であると見抜きました。

この場面は、聖霊に満たされたペテロとサタンに心を満たされたアナニヤの対決だったのです。

サタンは人々の心から神とキリストを追い出すことに執拗です。

サタンの意図は、キリスト教的なものを持ち込んで、キリストを排除することです。

ヨーロッパやアメリカは、キリスト教的な社会を作りあげてきましたが、キリストに出会うことのできない教会をも作り出してきました。

日本における、最近の華美なクリスマス・イルミネーションもその典型です。

美しくて幻想的な世界を演出し、見る者をうっとりさせます。

しかし、クリスマスの中身は空っぽです。キリストはサンタクロースに取り替えられています。

教会はキリストの体です。

教会は、偽善的なパン種のない、純粋で真実なパンとなることが求められています。



Ⅲアナニヤの罪とは何か

4節によると、アナニヤには資産を売る義務はありません。

売った後も自由にすることができました。

彼に、惜しみなくふるまう程の愛がなくても、それは彼個人の問題です。罪とは言えません。

しかし、彼が人々の前で偽りに満ちた良い格好をするのは、神を欺き神の教会を危うくする事です。

私達はアナニヤとサッピラの死という出来事にショックを受けて、大切なことを見失いがちです。ある人々は、厳しすぎると声を上げ、ペテロの扱いを批判するかもしれません。

しかし、足の不自由な男を癒したのがペテロでないように、アナニヤを死に至らせたのもペテロではありません。

神の聖霊は、立ち上がったばかりの教会を、その腐敗のパン種から守る為に、アナニヤとサッピラを打たれました。

三国志演義には「泣いて馬しょくを切る」という諸葛孔明の故事があります(自民党は復党に寛容)

神の慈しみと厳しさを見失ってはなりません(ローマ11:22)

モーセが十戒を制定して後、安息日に薪を集めて厳罰に処せられた男がいます(民数記15:32-36)

彼は、主の名において処罰されています。

草創期には、このような厳罰主義が避けられません。

ヨシュアが約束の地に入って来た時、エリコを滅ぼし破竹の勢いでした。

その直後、最初の躓きを経験しました。

アカンが貪欲に支配されたのです。

イスラエルは、深い悲しみの中でアカン一族を裁きました(ヨシュア7:19-26)

以来、その地はアコル(わざわい)と記念されました(ホセア2:15)

パウロは「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためです。

それによって彼の霊が主の日に救われるためです」(Ⅰコリント5:5)と微妙な発言をしています。



Ⅳ神の教会

教会はキリストの血による贖い(神の義と愛)によって礎をすえられました。

この聖なる愛の上に、私たちも自分の小さいが真実な愛のブロックを積み上げていきます。

どのような教会作りをするかということがしばしば論じられます。

地域に仕えるとか、海外宣教に勤しむ・・・など、それぞれのあり方を求めています。

「使徒の働き」は「地の果て」を視野に置いています。

それは、日常的には、主の前に真実に生きる、或いは仕える(礼拝する)ことの延長です。

預言者ミカは「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)と促しています。

サタンは虎視眈々、教会に偽善のパン種を持ち込むのに執拗です。

アナニヤとサッピラの偽善を排除する事で、教会は神の教会となって行くために吟味されました。

ここでも、聖霊が教会を導いてくださいました。

この事で、教会も教会を取り囲む社会も粛然とさせられました。

「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じ・・・みなは一つ心になって・・・ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった」と。

この事件は、図らずも教会の真価を問うことになりました。

このようにして、神の教会はさらに揺るぎないものへと成長していきます。