使徒の働き4章13-31節

20061022            神に聞き従う

使徒の働き4章13-31節

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」無い物ねだりではない。与えられているものをしっかりとは掴むことです。

こうして癒された男の出来事は、自分の人生に半ば失望していた人々の心にも希望を与えました。

その影響があまりにも大きく、ユダヤの当局者たちは苛立ちを覚え、見過ごせなくなりました。

彼らは「何の権威によって、だれの名によってこんなことをしたのか」と咎めました。

ペテロとヨハネは、ひたむきに語ります。

「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」と。

彼らは、二人を逮捕して、脅しまがいの尋問をしますが、いっこうに埒があきません。

ペテロとヨハネの切り札「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と、堂々としています。

結局「二人を罰するすべがなかった」ので、彼らは「二人をさらに脅したうえで釈放」しました。

これで一件落着したわけではありません。

これは、弟子たちが初めて経験した迫害・宗教弾圧です。

弟子たちはこの試練に直面して、恐れずに正しく対応することを学びました。

こうして、将来起こるであろうもっと厳しい迫害の日々に備えることが出来たのです。



Ⅰ神に聞き従う

弟子たちの行動規範は、初めから明白です。

イエス様は「わたしについて来なさい」(マタイ4:19、ルカ9:23)と呼びかけて召し出されました。

これは、心だけの問題ではありません。行動を伴う服従です(ルカ13:33)

他のいかなる権威・権力よりも、主イエスを尊び、主に聞き従うことです。

昔、祭司エリに語られた主の言葉は「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」(Ⅰサムエル2:30)と明解でした。

預言者サムエルは、サウル王に「主は、主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」(Ⅰサムエル15:22-23)と、譴責しました。

神の恵みに浴した者たちは「主よ、あなたに並ぶ者はない」(申命記3:26、詩篇86:8、89:6)と告白して、主の恵とまことを讃えてきました。

イエス様は「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と勧告しています。

また「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)と、命じています。

この世にも、様々な連携と服従の関係があります。

“寄らば大樹の陰”といった、功利的で自己保存のための関係があります。

恐怖政治のもとでは、恐れから服従している人々がいます。

(独裁国家や暴力団組織の中にいる者が、その典型です)

巧言令色に欺かれて、実態を知らずに献身的に仕える者もいる。

(破壊的なカルトや、狂信的な教祖に隷属している者たち)

私たちが神に聞き従うのは、神が創造者であり、私たちの存在の源泉だからです。

幸いなことに、私たちの神は、私たちに憐れみ深い方です。

神の言葉は、永遠に変わらない真理です。

神の言葉は私たちを励まし、望みを抱かせて導きます。

神の約束は懇ろです「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」(詩篇32:8)と。

ですから、私たちは神に信頼して、神の言葉に聴き従います。



Ⅱ執拗な迫害者たち

「神に聞き従う」という決意は尊いものです。

しかし、良い決意をすれば、周囲が喜んで協力してくれるわけではありません。

むしろ、平和を乱すといって疎外されることがあります。

ユダヤ民族は、神が救い主を出現させてくださるのを待ち望んでいた人々です。

しかし、実際に神の子が人となって来られると、イエス様を受け入れることが出来ませんでした。

イエス様を拒んで、十字架に追いやりました。

真理の聖霊に満たされたペテロとヨハネが、彼らの誤りを正し、誰も反論できない証言をしました。

彼らは、ふたりが「無学な、普通の人であるのを知って驚いたが・・・返すことばもなかった」のです。けれども、それで矛を収めたわけではありません。

真理に従えないところでは、混乱が生じます。

彼らが示した、心の葛藤とその暴挙、そして結末を見てみましょう。

1、 当局者たちは、始めに不快感を示しました(2節)

ペテロの主張は正しく、反論の余地がありません。

このままでは、面目が丸つぶれです。

人は、自分に非があるときでも、指摘され、或いは譴責されることを嫌うものです。

理性が相手の正当性を認めるときでも、感情のわだかまりを克服するには勇気が必要です。

主イエスは「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)と教えられました。

パウロも「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(Ⅱコリント13:8)と書いています。

真理は神に属するものです。

真理に逆らうのは、鉄壁や石垣に体当たりするようなものです。

結局、自分を傷つけ滅ぼす事になります。

真理に従わないと迷走・脱線します。

2、見せしめの逮捕(3節)

彼らは、権力にものを言わせて、理由もないのにペテロとヨハネを逮捕しました。

権力者にとって、こんな時に便利なのが治安維持法です。

ペテロとヨハネは、一晩留置されました。不当な逮捕です。

3、公然と禁令を発する(18節)

その上「イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と禁令を発しました。

何一つ、筋が通っているとは思えませんが、狂気だけがエスカレートしていきます。

やりたい放題です。

4、恫喝(21節)

それでも飽き足らず脅します。これは常軌を逸しています。

最初の一歩で真理に従えなかった結果です。

誇り高いイスラエルの指導者たちは、今や、暴力団なみの手法を用いています。



Ⅲ教会の対応

ペテロとヨハネは、とにかく、翌日釈放されました。

しかし、教会は、キリストを語る事を禁じられ、さらに脅されました。

手足を縛られ、口を封じられたような状態です。この危機を切り抜けなければなりません。

1、「心を一つにして」(24節)

一人では耐えられないことも、友人がいれば乗り越えることができます。

先ごろ、心を一つにして聖霊を待ち望んだ信仰の結束は、この時も生きています。

主イエスは「あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19-20)と約束しています。

2、的確な状況分析(25-26)

弟子たちは、初めて弾圧に遭遇しましたが、パニックに陥りませんでした。

自分たちの置かれた状況を、詩篇2篇の預言と重ね合わせています。覚悟ができていました。

「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ」との詩篇を思い出しています。

今がその時だと認識しています。

彼らは、主イエスの苦難を偲び、この不条理に臆せず立ち向かいました。

3、「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり・・・みことばを大胆に語らせてください」と祈ります。

仲間はずれや村八分にされることも辛いことですが、ここでは公権力が脅しにかかっています。

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」と言い切る勇気はありましたが、祈りに応える神の恵みなしには耐えられない状況です。

八方塞がりに見える時、天に向って祈れるとは幸いな事でしょう。

パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリント4:8-9)と。

恩師の小島伊助先生は“上は誰も塞げない”といわれました。

4、「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」(31節)

聖霊は、よちよち歩きの教会を、著しいしるしをもって励ましてくださいました。

古来「使徒の働き」が、聖霊行伝と言われる所以です。

教会は、この危機に臨んでも一歩も退かず、福音の宣教を推し進めることができました。

弟子たちは脅かされながらも、よくがんばりました。

しかし、彼らの力だけではありません。

彼らには拠り所があったのです。

弱い彼らの祈りに、神がお応えくださったからです。

これは、ひとえに聖霊の恵でした。

「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」のです。

「語りだした」はインパーフェクト(未完了)です。

福音は語り続けられて、今日にまで及んでいます。

そして、この宣教は、主が来られる日まで続けられます。