使徒の働き4章1-12節

20061008          イエス、唯一の御名

使徒の働き4章1-12節

前回、ペテロとヨハネは、神殿の門前で物乞いをしていた足の不自由な男を立ち上がらせました。

それは、ひとえにイエス・キリストの御名によるものでした。

癒された男は40才あまり(4:22)神殿で物乞いをしていたのも、昨日今日のことではありません。

祈りの時に神殿を訪れる習慣を持っていた者なら、みな彼を見知っていた事でしょう。

彼の姿は、これまで不幸の象徴のように見えました。

通りすがりの人には、卑屈で惨めに見えたり、時には厚かましく見えることもあったでしょう。

人々は、自分が彼のような立場にない事を喜び、感謝したかもしれません。

しかし、その日、人々はこの男が欣喜雀躍として神を讃えている姿を見ました。

これは、センセーショナルなできごとです。

人々が“いったい彼の身に何が起こったのだろう”と、好奇心を抱いたのは自然の成り行きです。

ペテロとヨハネは、このチャンスを捉えてイエス・キリストを宣べ伝えました。

イエス様は「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられ」ました(マタイ7:28)ペテロの説教も、明解ですが権威を感じさせます。

今や、弟子たちが、主の権威を継承していることは明白です。

蛇足ですが、権威とは、高いところから偉そうに語ることでは得られません。

語る言葉が醸し出すものです。聞く者を威すのではなく、畏敬の念を抱かせるものです。

その結果「みことばを聞いた人々が大勢信じ、男の数が五千人ほどになった」と、教会の躍進を記しています。

このような力に満ちた権威は、どこから来るのでしょう。

最大の理由は、主イエスが弟子たちに権威を授けて遣わされたからです(ヨハネ20:21-23)

しかし、それだけではありません。

何故なら、同様に遣わされても、委ねられた権威を汚し傷つけてきた者たちは少なくありません。

ペテロの説教に権威が伴った理由は単純明快です。

ペテロが、神とイエス・キリストに関する事実だけを語ることに終始したからです。

彼らは、福音宣教において、キリストの証人に徹しています(異端者たちは自己主張に終始する)



Ⅰ祭司長たちの反応

神殿の門前で起こった出来事は、今やエルサレム全体を巻き込む話題となりました。

換言すれば、イエス・キリストの御名によって生じた波紋が、エルサレムを覆い尽くしています。

この波紋は一様ではありません。

みんなが喜び、みんなが神を讃えているわけではありません。

こんなに明らかなことですが、誤解した者たちもいます(3:11-12)

或いは、自分の立場を守ろうとして、警戒心を抱いた者もいます(4:2-3)

もちろん、救いの確信を得て、信者の仲間入りした者たちも大勢いました(4:4)

祭司長たちに目を留めてみます。

彼らは、ペテロとヨハネが民衆を教えていることに苛立って、逮捕・留置という暴挙にでました。

これは不当な仕打ちですが、昔から権力者が使う乱暴なやり方です。

彼らは、イエス様に対しても同じ事をして、十字架で殺したのです。

そして、今、主の弟子たちをも同じようにあしらいます。

何故、同じ事を繰り返すのでしょう。彼らが公正な視点に立っていないからです。

この場面で、人が真っ先に注目しなければならないのは、イエス・キリストの名によってなされた神の恵です。

一人の不幸な男が解放されて喜んでいる事実です。

しかし、祭司長たちは、このいずれも心に留めていません。

彼らは神を賛美することもなく、不幸な隣人に訪れた幸せを喜ぶ優しさもありません。

祭司長たちが気にしたのは、まったく見当違いな事柄です。

祭司でも学者でもないペテロとヨハネが大胆に語り、民衆が喜んで耳を傾けている姿でした。

彼らは「何の権威によって・・・だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問します。

このニュアンスは「俺たちの許可もなしに不届きな」という威嚇です(ジョン・バンヤンは投獄)

彼らは、既に歪んでいる社会秩序にすがり付いて、その破綻だけをひたすらに恐れています。

新しい秩序の創造など思いも及びません。

彼らが面目を失ったという感情を思いやることはできます。しかし、大局を見失ってはなりません。

自己保身や妬みは自分自身を見失い、周囲ばかりでなく自分を滅ぼすことになります。

責任ある者たちは、概して“事なかれ主義”に陥る事があります。

ことが起こると、適確な対応ができないからです。(岐阜の裏金処理に現金焼却)

彼らが、隠蔽工作を繰り返して、結局、破局に立つ姿は珍しくありません。

バプテスマのヨハネやパウロは、この点で高潔でした。

パウロは、ローマの獄中に囚われていた時、彼に対して悪意を抱く人々の存在を知っていましたが、

彼は「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」(ピリピ1:18)と書いています。驚くべき寛容です。



Ⅱイエスの御名

ペテロとヨハネは「何の権威・・・だれの名によって」と問われた時、応える用意ができていました。既に幾たびも語ってきたからです。

「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名による」と応えました。

イエスとは、ギリシャ語(イエスース)です。

英語圏では、ジーザスと呼びます。

ユダヤ人の名前としては、ヘブル語のヨシュア(イェホシュア)が相当します。

北秋津キリスト教会の熟年者会はヨシュア会ですが、ギリシャ語風に呼べばイエズス会です。

ヨシュアの名は、旧約聖書に4名登場します。

その中で一番よく知られているのが、神の人モーセの従者として忠実に仕えたヨシュアです。

このヨシュアは、ヌンの子ホセアと呼ばれていました。

モーセが、彼をヨシュアと改名した経緯があります(民数記13:16)

モーセに率いられたイスラエルは、エジプトから解放され、シナイ山で律法を授けられました。

その後、約束の地を目指してカデシュ・バルネアまで来ました。

ここで、モーセは12部族から12人の代表を選び、カナンの地の偵察を命じます。

その時、エフライムの代表にはヌンの子ホセアが選ばれました。

モーセは出発に先立って、ホセアをヨシュアと改名しました。

ヘブル後のアルファベットを一字加えただけですが、その意味は味わい深いものとなりました。

ホセアも「救い」を意味しますが、ヨシュアの語義は「ヤーは救い」です。

ヤーはヤーウェ(主)の短縮形です。

救いは万人の関心ごとですが、救いを誰に求めるかが決定的な事です。救いは主からきます。

その時の偵察報告は悲観的なものでした。

しかし、カレブとヨシュアの二人は「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。

あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。

彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。

しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」(民数記14:7-9)と励まします。

他の十人が怖気づいた時、二人は主に信頼してたじろぎませんでした。

この偵察・報告において、ヨシュアとカレブだけが、神への信頼を失わなかったのです。

ヨシュアの改名における、モーセの祈りと意図が偲ばれます。

成年男子で約束の地に入り得たのは、ヨシュアとカレブだけでした(民数記13-14章を参照)

ヨシュアは、晩年イスラエルの同胞に向い宣言しています。

「私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:15)と。

後に、イエス様が降誕される時、疑心暗鬼の中にあったヨセフに、夢で啓示が与えられました。

その時、主の使いは「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。

この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:20-21)と語りました。

旧約聖書のヨシュアは「主が救い」であることを明らかにしました。

そして、イエス様は、主ご自身です。救い主そのものです。



Ⅲイエスは唯一の御名

ペテロは、主イエスの身に起こった事を、詩篇を引用して論証しています。

「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」(詩118:22)と。

十字架の死は無残です。普通なら有るまじきことですが、神は、これを既に、織り込み済みでした。

ペテロはさらに大胆に「この方以外には、だれによっても救いはありません。

世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と宣言します。

イエスが救いをもたらす唯一の御名です。

日本では、宗教なら何でも大切にするという受け止め方があります(鰯の頭も信心から)

一つの家にも色々な神々が同居しています。

神々は八百万(やおよろず)と言われます。

ギリシャ人も「知られない神」(17:23)を祭るほど宗教的に周到でした。

これは、換言すれば、唯一絶対の神を持っていないということではありませんか。

“下手な鉄砲も数打てば当る”という、偶然頼みです。

占い師が“当るも八卦、当らぬも八卦”という口上を、平気で使います。

私たちのイエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と明言されました。

来月の特別伝道集会の準備が既に始まっているようです。祈りつつ、神の御業を期待してください。