20060917 人の選び、神の報い
使徒の働き3章11-19節
ペテロとヨハネは、エルサレム神殿の門前で物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男を、イエス・キリストの御名によって癒しました。
「彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った」次第です。
その奇跡のキーワードは「イエス・キリストの名によって」でした。
彼は40歳余り(4:22)ですが、生れてこのかた、一度も自分の足で歩いた事がありませんでした。
その彼が「イエス・キリストの名によって」初めて立ち上がり、歩き始め、跳んだりはねたりするのですから大事件です。
このような出来事は、すぐに広まり、町中の評判になります。
以前から彼を知っていた人々は、無関心ではいられません。非常に驚いて集まって来ました。
ペテロは、すかさずこの機会を捉えて、集まって来た人々にキリストを語り始めました。
これは、町をあげて祝ってあげても良いほど嬉しい出来事です。
しかし、人の心は捻くれています。この素晴らしい奇跡も、めでたしめでたしでは終わりません。
何故かと言うと、目の付け所がずれているからです。
Ⅰなぜ驚くのか
ペテロは人々に「なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」と問いかけます。
「私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」という言葉は、人々の関心が、見当違い・的外れであることを指摘しています。
ペテロは「イエス・キリストの名によって」この男を癒しました。
癒された男も喜び踊りながら「神を賛美」しています。明らかに、栄光は神のものです。
しかし、人々は目に見えない神よりも、目の前にいるペテロとヨハネに驚嘆の眼差しを向けています。
確かに、この日ペテロとヨハネが果たした役割は、誰にでもできるものではありません。
神の全能を信じた者に、神が現された恵の業です。
因みに、使徒19章12-17節に、パウロの真似をして災難を蒙った男たちの記録があります。
「イエス・キリストの名によって」と言う言葉は、おまじないや呪文ではありません。
誰が唱えても効果を現すものではありません(開けゴマ、テクマコマヤコン・・・)
これは、イエス・キリストに対する信仰と愛の告白です。
ペテロやパウロの信仰と人格は、野心的なスケワの息子たちと区別されなければなりません。
その上で、ペテロの言葉にもう一度耳を傾けてみましょう。
「なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」
ペテロが、断固として退けているのは、神の恵みの現場で人が賞賛されることです。
力と栄光は神のものです。人が賞賛され過ぎると、神が片隅に追いやられます。
個人崇拝、英雄崇拝とは、神さえも押しのける愚かな行為です。
イエス様は人間の傾向について「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない」(ヨハネ5:44)と厳しく警告された事があります。
人は度し難いものです。神に喜ばれるよりも、他人の賞賛を得たがるものです。
他人に媚びて賞賛することはあっても、神を讃えることを滅多にしない人間性は要注意です。
Ⅱ私たちの先祖の神は
ペテロはこの機会を用いて、先祖以来信じてきた神と救い主イエス様について語り始めました。
1、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました」
ペテロは大胆に、イエス様を、神のしもべと呼んでいます。
イエス様は神の御子ですが、私たちと同じ人間となり、徹底的に神に従う下僕の道を歩まれました。
神に従がって生きる生き方を、私たちに見せてくださったのです。
「イエスに栄光をお与えに」という表現は、イエス様の生涯に鮮やかに見られるものです。
イエス様を喜べない人々は大勢いましたが、誰も“恵に輝き愛に香る”イエス様を否定できません。
イエス様の語る言葉には慈愛があふれ、誰も侮ることのできない権威がありました。
イエス様が差し伸べられた御手は優しく、癒しの力がありました。
人々はイエス様を陥れるために、論争を挑み、或いは罠を設けましたが、彼らが勝利したことは一度もありません。
イエス様の存在は、神の栄光に満ちあふれていました。
それにも拘わらず、人々はこのイエス様を侮り、妬み、憎んで死を求めました。
ユダヤの指導者たちは、ローマの総督ピラトを脅して、十字架の死刑を要求しました。
唆された民衆は、選択を迫られた時、イエス様よりも人殺しのバラバを選びました。
人は、自分に相応しい選択をするものです。彼らには、バラバが似合いでした。
こうして、この世は、挙げてイエス様を十字架に追いやりました。
妬みと憎しみによる十字架、これが人々の選択です。
カルヴァリーの十字架には、一片の正義も、一欠けらのあわれみも見られません。
愚かで血迷った罪深い人間の選択でした。
ペテロは「あなたがたは、この方を引き渡し・・この方を拒み・・いのちの君を殺し」と糾弾します。
神が栄光を与えたイエス様への反逆は、神への敵対行為だと論じているのです。
2、「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」神は、御子イエス・キリストを死に追いやった反逆者に、どのように報いたのでしょう。
天の軍勢を呼び寄せて、報復することもできました。
しかし「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました」これが神の報いです。
パウロは、キリストの死と復活を「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4:25)と記しています。
これが、十字架と復活の奥義です。
十字架は人が選んだものです。復活は神の報いです。
イエス様の十字架の死は、紛れもなく人間の邪悪な行為です。
しかし、神の慈愛は、罪深い人間が赦されるために、御子を死からよみがえらせました。
キリストの復活は、復讐のためではなく、信じる者が赦されている保証です。
キリストの十字架の死を考察する視点は様々でした。
野次馬は「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と嘲笑しました。
犯罪人は苦し紛れに「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ23:37,39)と。
彼らの目には、十字架のキリストは、敗北者の姿にしか見えませんでした。
しかし、犯罪人の一人は「この方は、悪いことは何もしなかったのだ・・・イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と真理に目覚めました。
死刑執行人の百人隊長は、神をほめ「ほんとうに、この人は正しい方であった」(ルカ23:41,47)と。実に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」(Ⅰコリント1:18)です。
3、「神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました」
ペテロは、イエス様の十字架に加担した者たちに対して「兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです」と許容します。なぜなら、無知と言う点では、ペテロもまったく同罪だからです。
弟子達は、だれも主イエスの十字架の死を正しく理解していませんでした。
しかし、ペンテコステを迎え、真理の御霊が下り、旧約聖書に記された神の言葉に目が開かれると縺れていた糸が解けるように、すべてのことが明らかになりました。
主イエスの死と復活は「預言者たちの口を通して」語られていたことの実現であると確信します。
ペテロは、22節以下にモーセを引用し、24節ではサムエルを引き出し、25節ではアブラハムにまで遡っています。
キリストの出現は、自己義認にあぐらをかいていた人々に対して、疾風怒濤の感がありました。
彼らは、反感だけを募らせてキリストを拒み、死に追いやりましたが、
ペテロは今、先祖たちと預言者たちが、この日の訪れるのを待ち望んでいたことを明らかにします。
Ⅲ悔い改めて、神に帰れ
神は、遠大な計画をもって、罪深い人間を救う時を図っておられました。
時満ちて、御子イエス・キリストをこの世にお与えくださいました(ヨハネ3:16)
しかし、愚かで自己中心的な人間は、神の意図に反逆しました。
イエス様の十字架は、ある人々には、無駄な失敗のように見えました(統一教会の原理)
しかし、慈悲深い神は「私たちの罪に従って私達を扱うことをせず、私たちのとがに従って、私達に報いることも」(詩篇103:10)ありません。
人は、いのちの君を殺したのですが「このイエスの御名が、その御名を信じる者を」救います。
ペテロは、人々に訴えます「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」と。
私達は、直接イエス様を十字架にかけた訳ではありません。
しかし、神の前に罪なしと言える人がいるでしょうか。
創造者なる神を知らず、神に背を向け、自己中心に生きてきた事実は私たちのものです。
神は、人の愚かな選びに、人知を越えた報いを用意してくださいました。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)
愚かな選びに、あわれみ深く報われた主の御名を崇めましょう。