使徒の働き3章1-10節

20060910            私にあるもの

使徒の働き3章1-10節

聖霊を受けた弟子たちは、全く新しい人になりました。

ペテロと十一人の男は、イエス様の十字架と復活を大胆・率直に語り始めました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして・・・わたしの証人となります」と言われたイエス様の言葉の成就です。

そして、教会は、言葉だけでなく、力にもあふれていました。

エルサレム教会では「使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行なわれ」ました。本日は、その中の一つ、当時の人々が語り草とした「生まれつき足のきかない男」の物語です。



Ⅰ門前の奇跡

その日「ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行き」ました。

当時のユダヤ人にとって、午前9時と午後3時は、いけにえをともなう祈りの時でした。

イエス様の弟子たちもエルサレム神殿に出かけました。祈りの習慣を彼らも大切にしたのです。

敬虔な人々が集まる、この時と、この場所を宣教のチャンスと考えたのでしょう。

ペテロは「美しの門」と呼ばれるところで「生まれつき足のきかない男」に出会いました。

この門は、神殿の内側にある婦人の庭と異邦人の庭を隔てる門です。

この男は「宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日、この門に置いてもらって」いました。

彼は、通りかかったペテロとヨハネに、いつでも誰にでもするように施しを期待しました。

その眼差しを受け止めたペテロの心に、熱い思いが湧きあがって来ました。

ペテロは、その男を真っ直ぐ見つめて「私たちを見なさい」と呼びかけました。

こうなれば、その男が「何かもらえる」と、期待したのは当然の成り行きです。

ところが、ペテロは「金銀は私にはない」と言います。

これで終わりなら心ない冷やかしです。こんなに失礼で残酷なことはありません。

ペテロは「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じ、すかさず手を差し伸べて彼を立ち上がらせました。

この男は、生まれて初めて自分の足で立つことができました。小躍りして喜びを表しています。

彼が、初めに期待した金銭は得られませんでしたが、期待もしなかったものを戴きました。

彼の唇から、おもわず神を讃える賛美が湧き起こった所以です。

イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:7-8)と懇ろに語られました。

求める時、正しく求める事が重要なのは言うまでもありません。

しかし、私たちは時々求め方を間違います。それでも、憐れみ深い神は求め続ける者を憐れみます。

これは、白昼、人々の面前で行われた奇跡です。誰も否定できない神の業です(4:16)

これは、弟子たちの集まりが、神の恵に満ちている事を証明するしるしです。

教会はこの時、イエス様の直接的な指導から聖霊の導きに委ねられる過渡的な状況にありました。

外から見ると、イエス様のリーダーシップから、弟子たちのグループ指導に移っています。

それでも、教会は神のものです。教会の本質は、少しも変わってはいません。

神は、キリスト教の基礎がすえられる大切な時に、数々のしるしを持って、教会とその福音が本物であることを裏付けてくださいました。

聖園教会の40数年も、節目節目に神の恵を刻んでいるのではありませんか(北秋津もしかり)

ルカは「使徒の働き」を記録しながら、心を躍らせたのではないでしょうか。

ルカは、イエス様在世中の事を、記録や証言をつぶさに調べて知りました(1:1-4)

そして、今、自分が参加している初代教会も、イエス様時代と寸分違わないことを味わっています。もちろん、真の主役は聖霊ですが、弟子達が活動する時代も、イエス様時代と同じです。

この後の記録でも、ルカは随所で福音書を偲ばせてくれます。

ルカは、福音書で主イエスがなさった数々の神の業が、自分たちの時代にも、躍動するような形で継承されている事実に目を瞠り、著述の労苦が報われた事でしょう。

本日のできごとは、祈りの時・祈りの場に関わっています。

しかし、実際には、門の外、祈りが始まっていない場外篇です。神の恵みは時空を越えています。



Ⅱ今日の課題

足の不自由な男が、毎日神の宮で祈りの時を空しく物乞いしなければならないのは悲しい事です。

私の少年時代には、駅前、電車の中、公園、寺社の境内など、物乞う姿は珍しくありませんでした。

今日、社会保障が制度として整ってきた先進諸国では、この状況は幾分改善されていると思います。

しかし「美しの門」の光景は、今日も変わらない世界の縮図と見ることができます。

世界中で富と貧しさ・誉と恥辱が隣り合わせている現実を、私たちは知っています。

これは、不公平で過酷ではありますが、ある程度、受け入れざるを得ません。

実際、一つの家に二人の子がいれば、同じ愛情に包まれ同じチャンスに恵まれたとしても、

二人は同じように成功するわけではなく、同じように失敗するわけでもありません。

まして、多種多様な人間の社会で、人々が均衡を保つのは至難です。

けれども、その格差が余りにも大きくなると、周囲はさすがに見過ごせなくなります。

何とかしなければならないと考えるわけですが、上手くいっているでしょうか。

この問題を考える前に、イエス様の例え話を思い出してみましょう。

主は、ある金持ちと全身皮膚病に侵された貧乏人ラザロのたとえ話をされました(ルカ16:19-21)

通常、このような場合は、ラザロが社会問題になります。

病人は不潔だ、貧乏人は危険だ、生活環境が悪くなる、何とかしなくては・・・と言った具合です。

時には、力づくで路上生活者を排除する論理が働きます。

しかし、イエス様のたとえ話には、そんな気配が見られません。

主はむしろ、ラザロを囲む人々が、ラザロを見つめながら、自分の生き方を考えるよすがとするように促しているのではないでしょうか。

(日本でもよく読まれているトゥルニエ博士来日のエピソード)

私達の社会では、二つのものが隣り合わせると、すぐに優劣の評価がされます。

しかし、似ても似つかない二つのものが隣り合わせになっている場所は、神が語りかける場です。

金持ちにとって、ラザロの存在は「愛とは何か、憐れみとは何か」を考える絶好のチャンスです。

人々が“これは社会問題だ”と考える時、イエス様は私たちに問いかけます。

私たちは「何をすべきか」と考えさせられるのではないでしょうか。

ラザロはアブラハムの懐にいます。金持ちは燃える火の中です。



Ⅲ私にあるもの

「美しの門(ホーライア・スラ)」という言葉を考察してみましょう。

「美しい」と訳された「ホーライア」という形容詞は、新約聖書に三回だけ使われています。

マタイ23:27、偽善的律法学者に浴びせた痛烈な批判です「白く塗った墓・・・外側は美しく見える」

主は、厳しく欺きの美を指摘されました。外面の美の陰にあるのは死臭漂う墓です。

ローマ10:15(イザヤ52:7)「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」

これは、福音を伝える者の足を、美しいと讃えています。

この門が「美しの門」と呼ばれるようになった理由は諸説あります。

この門は、東側に位置するニカノル門と推測されます。

ニカノル門は、敵を城壁に釘付けした記録を思い起こさせます。

この門は、コリント風の様式美を誇っていますが、異邦人と婦人の庭を隔てる差別の象徴です。

この門は、これまで「美しい」と呼ばれていましたが、宗教的無力さの象徴でした。

当時の人々は、生まれつき足の不自由な男に、小銭を施す外、何一つ出来なかったのです。

しかし、この日ペテロは、この門前に立って、この門の記念を「美しい」ものにしました。

ペテロの言葉はいかなる説教よりも簡潔です。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」

これこそ凝縮された福音です。

神学生の頃、一人の先輩について言われた言葉を忘れることができません。

彼を牧師に迎えた宣教師が、神学校を訪れて“彼は語るべき福音を持っている”と評価しました。

説教の演習に苦しんでいた私達は、みな羨望にかられたものです。

牧師も信徒も、聖霊を賜ったのですから「私にあるものをあげよう」と大胆に語りたいものです。

教会史には、これに関して有名なエピソードがあります(コルネリウス・ア・ラピデ)

ローマ法王が絶大な権力を持っていた頃のことです。

法王イノケンチウス二世は、大学者トーマス・アクイナスに言いました。

“昔の教会は貧しかったが、今日では、金銀は私にはないなどとは、最早言わない」と豪語しました。すると、アクイナスは“その通りですが、イエス・キリストの名によって歩きなさいということもできなくなりました”と応えたそうです。

先頃、岡山で孤児院をたてた石井十次の生涯が映画になりました。

貧しさの極みの中で、恵まれない子どもたちに心血を注いだ方です。

石井に心酔した男が賀川豊彦です。

賀川は学者としても世界的に著名ですが、彼も神戸の貧民街で献身的に仕えました。

賀川が残した言葉です“金の無いとき寂しいな、贅沢したいわけではないが、人に親切できないから”

教会もお金が欲しい時があります。しかし、教会の真の力は、富を誇ることではありません。

教会の誇りは、キリストを持っていることです。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)

飯能聖園キリスト教会から、キリストが溢れ出してくださるように祈ります。栄光、主にあれ。