使徒の働き2章37-40節

20060813       曲がった時代から救われよ

使徒の働き2章37-40節

前回、聖霊を受けたペテロが、ユダヤ人や各地からの巡礼者を前にして語った説教を学びました。イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき・・・わたしの証人となります」と言われましたが、弟子たちは、ペンテコステの日に、額面どおりイエス様の十字架と復活の証人となりました。

イエス様の十字架の物語は、不思議という外ありません。人間の理解を越えています。

ユダヤ人たちは、キリストを妬み、憎み、排除するために十字架につけて殺しました。

イエス様の十字架を実現させたのは、底知れない人間の罪です(ユダヤ人、民衆、ピラト、弟子たち)

後にペテロは「キリストは罪を犯したことがなく、その口に偽りも見出されませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず」(Ⅰペテロ2:22-23)と書きました。

何一つ抵抗しなかったイエス様を、人々は十字架の上で虐殺しました。

実に「曲がった時代」です。正義が軽んじられ、真理が覆われ、邪悪な力が支配しています。

しかし、神はキリストの十字架によって、罪を赦す道を開いてくださいました。

「曲がった時代」の潮流に押し流されれば、ついには共に滅びなければなりません。

ペテロの説教の結論は「この曲がった時代から救われなさい」(40節)という呼びかけです。



Ⅰ曲がった時代

「曲がった(スコリオス)」という形容詞は、4回(ルカ・使徒・ピリ・Ⅰペテ2:18)だけ使われていますが、いずれも悪い意味で使われています。

日本語では、曲がるという言葉は、必ずしも悪い意味ではありません。

広辞苑を開くと“たわむ・おれる・方向を変える・傾く・道理にはずれる”などとあります。

“道理からはずれる”は五番目、最後に登場します。

たとえば“曲者”と言えば、怪しいやつという感じです。

しかし、曲芸師といえば、人間業とは思えないことをする人です。

女性の容姿を誉める言葉に、曲線美があります。

日本語は、曲がる(曲げる)という言葉を、巧みに使い分けています。

「曲がった」と対象的な言葉は「まっすぐ」です。

へブル語の「まっすぐ(アーシェル)」には、幸いという意味があります。

その用法で有名なのは、詩篇一篇一節です。

「幸いなことよ(アーシェル)悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」これは、意訳すると「まっすぐ歩む人は幸いだ」という意味です。

私達の間では、曲も時には悪くありません。直も、必ずしも良くはありません。

直情径行と言うのは、決して誉め言葉とは言えません。

この違いは、どこから生じるのでしょうか。

神様の問題だと思います。

私達の間で、曲も直も巧みに使い分けられるのは絶対の基準がないからです。絶対の神が不在です。

“そこを、曲げてなんとか”と言いますと、曲がります。融通のきく、時には都合のよい社会です。

力関係で、曲げることも、突っ張ることも出来ます。

しかし、騙されてはいけません。そんな自由は、一握りの権力者だけのものです。

村八分と言う言葉があります。

“俺の言う通りにしないと、この村に居られなくしてやるぞ”と恫喝します。今日も時々聞きます。

弱い個人には、自由などあった試しがありません。

強い者たちが、自分の都合のよいように作り上げた習慣に、弱者は服従させられてきました。

聖書は、神が万物の創造者、すべてのものの上にある方だと教えています。

造られた人間は、造り主との正しい関係が求められ、その関係の中で生きるものです。

「神を恐れ、その戒めを守れ、それが全ての人の本分だ」と言われる通りです。

神の戒め、神の言葉が人間の生きる生き方を示します。

神の戒めに従って“まっすぐ歩みなさい。まっすぐ進みなさい”と、指針が与えられます。

その前方には、神様がおられます。

ゴールを見つめるように、神を仰いでまっすぐ歩む人に祝福が有ります。

余談ですが、幸いとは「祝福された」という意味です。人は神に祝福された時、幸いなのです。

(ハッピーという語は、偶発的な表現です。信仰的とは言えません)

人生の目標から神を見失った生活は、不幸です。それは、道徳的な善悪に止まりません。

いのちの道から曲がっているのです。

祭りで、エルサレムに集まってきた信心深い人々も例外ではありません。

彼らは、巡礼の旅をしてきた篤信の人々ですが、曲がった時代のただ中にいます。

省みるに、私達の時代も神を見失って曲がった時代です。

しかし、どんな時代にも、神に寄り頼んで希望を失わなかった人々も居ます。

ソ連が崩壊した時、東ヨーロッパの改革に貢献したのが教会だったことは慰めでした。

共産主義が支配していた時、教会は息を潜めていましたが、民衆の拠り所であり続けました。

チェコスロバキアのボヘミヤやモラビィアは、フスやティッシェンドルフを生んだ地です。

ヘルンフート兄弟団と呼ばれる人々の貢献は多大でした。

彼らの特徴は、みなが同じ時に同じ聖句を読むことにありました。

ポーランドの連帯を支えたカトリック教会の祈りも人々の心を励まし続けてきました。

世界の問題は、神を見失ったところから始まったのです。

教会は、社会における真理の柱です。

教会は、勇気と忍耐を持ち、この世に神を提示する責任があります。

人々が神様を見出すなら、自ら曲げた時代から、救い出される道を見出すことでしょう。

これまで、自分のやることに自信満々だった人々も、ペテロの説教を聞いて心を刺され「どうしたらよいよいでしょうか」と尋ねました。

以前、人々はバプテスマのヨハネに対して同じ質問をしたことがありました(ルカ3:10-14)

その時、ヨハネは群集に「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」と命じました。

取税人には「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません」と諭しました。

兵士には「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」と、明解に教えました。

きわめて日常的な勧めです。

無理な要求が突きつけられたのではありません。

ペテロはここで、二つの勧めをしています。



Ⅱ悔い改めとバプテスマ

ペテロは「悔い改めなさい(メタノエオー)」と呼びかけています。

この語の意味は、ターンです。人生なら“これまでの生き方を方向転換しなさい”という勧めです。

神を知らなかった時、私たちが考えていたのは、自己中心的にまっしぐらでした。

真っ先に自分の事を考え、他人を後回しにし、自分の家を思い、隣人を忘れます。

利己心は、正義を忘れ、自分の国益を考えて隣国を忘れ、神をも忘れる生活でした。

ペテロは「悔い改めなさい」と促しています。

方向を転換して神に向い、神に向かってまっすぐに生きよという事です。

神は光ですから、神に背を向けると、己の影を見つめながら歩かなければなりません。

神に向かうなら、光を浴びて、闇の中を歩くことはありません。

また、新しい方向へのスタートにあたり「罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と勧めます。

バプテスマとは洗礼のことです。今、準備をしておられる方々がありますこと、感謝です。

洗礼を免許皆伝と考えてはいけません。

新しい方向が与えられた者が、それに向かって歩み出す転機です。

悔い改めが罪の告白なら、バプテスマは信仰の告白です。

神が私を愛して下さっている事を喜び、御子の十字架によって私の罪が取り除かれた事を感謝し、この神に信頼して生きる決意の告白です。

政治家は“選挙による洗礼をうける”という使い方をしますが、意味は全く違います。

彼らは“支持された。罪はなかったのだ”と居直ります。

私達のバプテスマは、潔く罪を認めて、古い人はキリストと共に十字架で死に、今は神に生かされて生きるという宣言です。

ここには、復活の希望があります。

洗礼の資格が問われるとするなら、神の赦しと慰めがなければ生きられないという告白です。

御名によって(エイス・ト・オノマ)とは、御名と一体化することです。御名の内側に入ります。



Ⅲ約束された祝福

「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」

ペテロは、その日、自分たちが受けたばかりの聖霊について語ります。

そして、罪の赦しです。

神から離れていると、心と体と生活の中に罪が入り込んできます。

罪の赦しは、私たちを解き放ちます。

ですから、神に赦された人は、他人とも和解を求めてください。

神に赦されている者として、他者を受け入れる心を育んでいただきましょう。

それを可能にして下さるのは聖霊の賜物です。

パウロは「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22)と、明解に述べています。

聖霊が私達の心に満ち溢れてくださるなら、悔い改める勇気が与えられます。

この救いは、私達のいのちにも、心にも、生活にも及ぶことでしょう。