使徒の働き2章14-32節

20060723            復活の証人です

使徒の働き2章14-32節

ペンテコステは、新しい時代の訪れを告げるものです。

それは神の御霊・約束の聖霊が弟子たちの上に、即ち、教会に降るという形で始まりました。

その具体的なしるしは、キリストの弟子たちが他国の言葉で神の恵みを語り始めたことです。

聴衆は、祭りに参加するために、世界の各地から集まって来た巡礼者たちでした。

彼らは、自分の国の言葉で福音を聞き、驚きと感嘆の声を漏らしています。

「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きな御業を語るのを聞こうとは」

昔、預言者イザヤは、救い主を待ち望みながら、遥かに救いの日が訪れるのを夢見ました。

「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:1-2)と。

ルカはこの言葉を、祭司ザカリヤの賛歌の中で、記録しています(ルカ1:79)

しかし、今やルカは、地の果てを遠望しながら、ガリラヤの男たちが世界各地から集まってきた人々に、神のなさった事柄を直接語りかける場面を描写しています。

私には、ルカの陶酔、興奮が伝わってくるような思いがします。

福音宣教は、いま始まったばかりです。未だエルサレムを一歩も出ていません。

しかし、やがて全世界に展開する兆しは明らかです。

この時「いろいろな国ことばで神の大きな御業を語る」事を許したのは、正しく聖霊の賜物です。

言葉が人間生活に極めて重要な役割を果たしている事は前回も申し上げました。

ユダヤ人は、言葉が荒野を作る矛盾・悲劇を知っていました(ダーバールからミッドバール)

しかし、ついに、人々の間に争いや対立を生じる言葉ではなく、救いの希望をもたらす生命の言葉が語られ始めました。

それは、洗練された教師や宗教家の言葉ではなく、ガリラヤの漁師たちの言葉から始まりました。

人々は皆、驚き惑って互いに「いったいこれはどうしたことか」と、不思議な感に打たれています。

しかし「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と、嘲る者もいました。

Ⅰペテロの弁明(14~21)

そこで、ペテロは仲間と共に立ち上がり「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません」と弁明しました。

朝の九時は、敬虔なユダヤ人にとって祈りの時です。

この時間と酒酔いを一緒にすることは、無礼・不敬虔です。下司の勘ぐりです。

ペテロは、自分たちの身に起こった奇跡、恵みのしるしが、旧約聖書に記された預言者ヨエルの言葉の成就であることを明らかにしました。

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ・・あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」

旧約聖書には「終わりの日、主の日」という表現がよくあります。

ユダヤ人は、その日を、神が歴史に介入してくださる日と考えてきました。

一般的には、虐げられた民衆には政治・経済的な解放を期待する傾向があります。

しかし、神の介入とは、神が聖霊を注いでくださることで頂点に達します。

20節には、主の大いなる日の到来の前に闇(天変地異を伴う)が示唆されています。

21節では「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」と、不滅の言葉が記されています。

ペテロは預言者の言葉を引用し、神の経綸を理解しようとしないで、周辺で起こる事柄を侮り拒む偏狭な人たちに、今、何が起こっているかを気付かせます。

この日ペテロは、旧約聖書から3箇所を引用して語っています。

時々、旧約聖書に親しめないと言う方がいます。或いは、新約聖書だけで十分だと考える方もいるようですが、旧約聖書を知ると新約聖書の福音の豊かさがわかります。

何故福音なのか、救いが突発的なものでなく、神の遠大な計画のもとにあったことが分かります。

Ⅱペテロのメッセージ

22節以下は、ペテロがイスラエルの同胞の前で初めて語った福音宣教です。

ペテロは、誰も否定できない事実を鋭く指摘し、預言の言葉を引用して神の意図を明らかにします。

1、初めにペテロは、主イエスが「あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです」と、イエス様自身を語っています。

これは、聖霊による福音宣教の根幹をなすものです。

イエス様は、最後の晩餐で「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)と言われました。

なぜ、真っ先にイエス様を語るのでしょうか。人々が知らなければならないのはイエス様です。

“神様はなんとなく分かるが、イエス様が分からない”という人が多いものです。

神様という言葉は、有神論の世界ではある程度通じあいますが、その概念は人それぞれです。

神様を見たものは一人もいません。一人子なるイエス様が神を顕わしました(ヨハネ1:18)

人は、イエス様によって、初めて神を見ることができます。

イエス様の力ある奇跡の数々、その慈悲深い知恵と慰めの言葉は、イエス様が神であるしるしです。

2、罪を認識させます(23節)

ペテロは「この方をあなたがたは不法な者の手によって十字架につけて殺しました」と、大胆に恐れず躊躇わず、真っ直ぐに指摘しました。

イエス様は、人間の歴史の中で最も美しい生命でしたが、人々は最も残酷な殺し方をしました。

ローマの総督、冷酷なピラトでさえイエス様の罪を認めることはできませんでした。

しかし、妬みと憎しみに狂ったユダヤ人は、ピラトを脅迫して、主を十字架へと追い込みました。

これでも罪なしと言えるでしょうか。

後に、37節で「人々はこれを聞いて心を刺された」とあります。良心が咎めたのです。

ある善良なユダヤ人ラビは「イエスの物語は涙無しには読むことが出来ない」ともらしています。

人間は、今、何が起こっているのかという、批評家的な立場に立つ傾向があります(ニュース報道)

しかし、一般的な問いよりも、自分たちは何をしたのかに気づくことが大切です。

ペテロのメッセージは、その点に触れています。

3、次にペテロは神の業を明らかにしています。

23-24節「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」

ペテロのメッセージは、ユダヤ人に恨みつらみを述べるのが目的ではありません。

地上で行われた最悪の事態に、神は復活の恵みをもって応えてくださったと告げているのです。

十字架のできごとは「神の定めた計画と神の予知」に従ってなされたものだと宣言します。

もちろん、イエス様の死に関わった者たちに、責任がないわけではありません。

裏切り者ユダ、日和見なご都合主義者ピラト、妬みと憎しみに駆られた偏狭なユダヤの指導者たち。

弁解の余地はありません。みな、自分の罪の結果を負わなければなりません。

しかし、神の大きな憐れみは、イエス様の復活によって、事態を逆転してくださいました。

闇の中に光、救いの希望を開いてくださいました。

ペテロはこれを論証するのに、詩篇16篇ダビデ王の賛歌を引用しました。

「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである」

これは、ダビデ王の勝利の歌と考えられてきたものですが、キリストの復活を啓示したものです。

ペテロ自身、イエス様の復活を容易に受け入れられなかったのですが、今は、聖書を引用して雄弁に論証します。復活は起死回生です。

復活さえも突然起こった事ではなく、聖書に啓示されていたと説明しています。

江戸時代の盲人の学者、塙保己一は“番町で、目あき、目クラに道を聞く”と詠みました。

エルサレムでは、聖霊に開眼されたペテロが、居並ぶ博識・聖書学者の前で旧約聖書を語ります。

4、私たちは証人です

32節「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」

この言葉にも、ペテロたちの充足感が感じられます。

イエス様が言われたのは「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」ということでした。

彼らは、その日が来るのを、ひたすら待ち望んできました。

そして聖霊は下り、彼らはキリストを証言し始めます「私たちは証人です」とは感慨無量です。

神がイエス様になさったことを語る、これが弟子(マセテース)であり、キリスト者です。

証人(マルトゥレス)と申しましたが、この語は、まもなく殉教者を意味するようになります。

今日でも証人になるのは、時には命がけです。

キリストの弟子たちは、主イエスの事を語ることによって命を失いました。

福音の証言は、軽はずみな、片手間のものではなく、命をかけるに値することです。

この2000年間どんなに多くの人々の犠牲が払い、キリスト教は世界に伝えられたことか。

ニュートライブ・ミッションがエクアドルに入った時、五人の宣教師が殺されました。

しかし、その遺族が(妻だったか)再びエクアドルへ入っていきました。そして、福音が根付いた。宣教の物語は、凱歌をあげる前に涙の物語です。それが、喜びと感謝に代わります(詩篇126:5-6)

繁栄と飽食の時代に福音のために幾分かを担う。福音の証人となる犠牲を惜しまないで下さい。

主は「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」と言われました。

永遠の喜びが、私達の歌声となるように祈りたい。