20060709 約束の聖霊が降る
使徒の働き2章1-13節
本日の聖句は、約束された聖霊が、神の時満ちて(プレローマ、ガラテヤ4:4)天から降り、弟子たちの上に留まり、彼らが他国の言葉で神の御業を語りだしたと証言しています。
それは、当時の世界各地から、遥々聖地エルサレムを訪れて来た巡礼者たちの度肝を抜きました。
しかし「甘いぶどう酒に酔っているのだ」(13節)と嘲る、冷やかな者たちもいました。
とにかく、父なる神が約束された聖霊、人々が心を合わせて祈り待ち望んでいた聖霊が、時満ちて弟子たちに降りました。これ以来、教会は、聖霊の守りと導きの中で発展してきました(聖霊臨在)
Ⅰペンテコステ
時は五旬節(ペンテコステ)でした。それは、過ぎ越しの祭りから数えて7週、50日目です。
ですから、七週の祭りとも呼ばれます。私たちにとっては、イースターから7週間後です。
過越しの祭りは、モーセがイスラエルをエジプトの奴隷の境遇から導き出した記念の祭りです。
五旬節は、歴史的には、モーセがシナイ山で十戒を与えられた日と言われます。
この祭りは、農業的には収穫のスタートを告げるもの、小麦の刈入れの祭りと呼ばれます。
収穫祭は、過酷な労働を慰めます。ですから、感謝と喜びに満ちています(詩篇126:5-6)
イエス様の十字架と復活は、出エジプトの救出、すなわち過ぎ越しの祭りの時でした。
そして、収穫が始まるペンテコステに、助け主・真理の聖霊が来て下さいました(啓示的)
人々が収穫を与えられて慰められたように、聖霊は教会に与えられた最大の賜物です(ルカ11:13)
しかも、聖霊の導きは、十戒に代表されるような管理のスタートではありません。
自由を齎す、生きた言葉によるスタートです。それは、世界宣教を実現する端緒となりました。
この日、教会は脱皮しました(ペンテコステは教会の誕生日ではない、むしろ成人式)
教会は、聖霊によって真の生命力を体験しました。存在目的も明らかになりました。
教会は、未だ完成したとは言えませんが、完成を目指して、力強く歩み始めました。
その具体的な行動が宣教です。それを可能にしたのが、約束の聖霊、真理の御霊、もう一人の助け主と呼ばれる聖霊です。
今迄、イエス様の影に隠れていた臆病な弟子たちでしたが、彼らは人々の前に立ちました。
彼らは、公然とイエス・キリストを語り始めました。これが福音宣教です。
弟子達が他国の言葉で話し始めた事は、単なる奇跡ではありません。将来の進展を予測させます。
ユダヤ人の中で生まれた神の恵み、救いの希望が全世界に広がるしるしです。
神はアブラハムを選び「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束されました。
この日、神の約束(創世記12:3)が成就しました。
聖霊の降臨について「突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」と記されています。
神の霊は、異象を伴った出来事として記されています。
これは、突然起こったようですが、心を合せて祈り備えていた人々は、しっかりと受け止めました。
聖霊がイエス様の頭上に降った時の光景は、鳩の如く穏やかな降臨でした(ルカ3.22)
その静かさと平和の調和は、神の子と神の聖霊の関係を表わしています。
Ⅱ聖霊は言葉をきよめる
しかし、神の霊は、旧約聖書以来、汚れを焼き清める火として語られてきました。
火の如きしるしをともなって降られた聖霊は、弟子たちの罪と汚れを焼き清める神の霊です。
舌のように見えたことも示唆に富んでいます。
3節の「舌」と4節の他国の「ことば」は同じギリシャ語(グローッサ)です。
言葉を生み出す舌こそ、まず火の聖霊によって清められなければなりません。
イザヤは雄弁な預言者でしたが、幻の中で、祭壇の火によって唇をきよめられました(イザヤ6章)弟子たちも語りだす前に、火の聖霊によって取り扱われきよめられたのです。
聖霊は、弟子たちの語る言葉の中で働いて真理を示し、平和を生み出し、神の国を育みます。
ですから、神の器が先ずきよめられる必要がありました。
私たちの中で、手や足で失敗したことはなくても、言葉で失敗をしなかった人はいないでしょう。ダビデ王も例外ではありません。
「主よ、私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守って下さい」(詩篇141・3)と祈りました。
ヤコブは「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです・・・小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」(ヤコブ3:5-6)と警告します。
舌は全身制御のかじ、小さいが大言壮語します。
イスラエルでは「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分の唇を制する者は思慮がある」(箴言10:19)と言われてきました。
もっと皮肉なのは「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、その唇を閉じていれば、悟りのある者と思われる」(箴言17:28)と痛烈です。
私達の間でも“沈黙は金”と言います。
「黙っていれば、知恵のある者と思われる」と言いますが、それでは、人は黙すべきでしょうか。
言葉のない生活は考えられません。言葉は神の恵みです。
私たちは、どんなに拙くても、言葉が発する慰めや労りや励ましに癒されます。
イエス様を「ことば(ロゴス)」(ヨハネ1章)と表現したのは見事です。
それにも拘わらず、人間の言葉は、日常的に浪費され続けています。
爽やかな言葉よりも、不快な言葉が大手を振って歩き回っています。
最初の人アダムが発した言葉は象徴的です。
彼は妻を与えられた時「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と歓喜しました。
しかし、罪を犯して発覚すると、自分の責任を認めないで「この女のせいです」と罵りました。
賛美の後で、呪いを吐いたのです。
以来、人の舌は、独善的で利己的な言葉を発し続けてきました。
へブル語に、ミッドバールという言葉があります。これは荒野や砂漠を意味します。ミッドバールはダーバールの派生語です。ダーバールとは、外でもない「ことば、事柄」という意味です。
要するに、ヘブル人の認識は、掛替えのない「ことば」から荒野が生じるということです。
彼らも自分のことばが作り出す荒野に悩まされたのです。
ですから、いつの日か、荒野に呼ばわる声を待ち望むようになりました。
預言者イザヤは、その日の訪れるのを夢見ていたのです(イザヤ40章)
人の言葉が作り出した心の通わない砂漠に、再び、いのちの言葉がひびきわたる日を。
バプテスマのヨハネは、荒野に主の道を設ける声でした。イエス様の出来事はその成就です。
イエス様は、何をしても何を語っても、人々の妬みと憎しみと裏切りの罵声を浴びせられました。
イエス様は徹底して無抵抗を貫きました。屠り場に引かれる羊のように寡黙でした。
神の子は、無力さの只中で死なれました。
しかし、三日目に復活されて、いのちの言葉となり、私たちの喜び、希望の言葉となりました。
キリスト者は、この言葉(音信)を、新しい清い舌にのせて運ばなければなりません。
聖霊は火の舌の印をもって新しい言葉を語らせる為に降りました。
聖霊の舌は、ここに愛があり、ここには赦しと救いがあると、福音を語らせます。
キリストの福音は、復活の希望です。永遠のいのちの喜びを宣言します。
聖霊は舌をきよめ、言葉をきよめて、卑しい土の器を用いてくださいます。
心の通わない砂漠を作り出す言葉ではなく、恐れと悲しみから救い出す福音を語らせてくれます。
Ⅲ宣教の展開
この日、弟子たちは他国の言葉で話し始めました。イスラエルの国境を越えて語り出したのです。
旧約聖書に、良く知られたバベルの塔の物語があります。
人が神に対抗して己の栄光を追求したとき、神が人々の言葉を乱しました。
人々は、それまで一つの言葉でしたが、言葉の混乱が意思の疎通を欠くことになったと言われます。
私などは“世界がひとつの言葉だったらどんなによいか”と願います。語学コンプレックスです。
聖霊は、失われた言葉ではなく、新しい言葉を用意してくださいました。
言語が同じでも、必ずしも心が通うわけではありません。自己主張の世界をご覧下さい。
統一原理といういかがわしい連中がいます。彼らは、世界が韓国語に統一されると宣伝しました。
その実体は、文鮮明と言ういかがわしい男を神とする個人崇拝の宗教です。
人々の心を欺く、霊感商法と呼ばれる詐欺集団に過ぎませんでした。
俺々詐欺、振り込め詐欺の先駆けのような宗教です。調子のいい言葉に騙されない事です。
真の福音は、すべての人に開かれたものです。あらゆる国の言葉で聞けるのが福音です。
宣教師たちは、この使命を担って、未知の世界に出て行きました。それが、使徒の働きの展開です。
日本にも、多くの宣教師たちが渡来しました。
宣教のために命を惜しまなかった人々がたくさんいました。
戦後、日本にやって来た宣教師たちの苦労は大変なものでした。
しかし、今日では、日本は宣教師に魅力のない国になっています。
聖書翻訳は進み、千数百の文字(言語)に翻訳されているそうです。
人々が、そこから救いを汲み取る本当の言葉に出会う為です。
しかし、今日、日本の神学校は学生不足です(韓国では競争率が高いそうです)
イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタイ9:37-38)と言われました。
荒野を作りだす言葉でなく、人を救いに導く神の言葉に仕える者が起こるように祈って下さい。
また、ご自分のために祈ってください。
教会と牧師のために祈って下さい。
そして、地の果てに目を向けて「御国が来ますように」と祈って下さい。