20060618 みな心を合わせて
使徒の働き1章9-14節
8節「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)
私たちは、イエス様が最後の晩餐の席で語られた言葉を告別の辞と受け止めています。
しかし、8節こそ、主イエスが昇天に際して語られた言葉、地上における最後の約束です。
イエス様の十字架によって、贖罪は既に完結しました。罪の赦しと生命の道は開かれました。
生まれながらの義人は、一人もいませんが「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17)
神はこの恵を、主イエスの復活によって弟子たちに確信させてくださいました。
復活は無敵です。最早、死を恐れる事もありません。
次にすることは、この福音を世界の隅々まで、すべての造られた者に宣べ伝えることです。
この時、イエス様は、逸る弟子達の心を静めて「父の約束(聖霊降臨)を待ちなさい」と命じます。福音は神の恵みですから、小賢しい人間の知恵では扱いきれません。
宣教は、聖霊の知恵に信頼し、委ねて従うのが最善です。
イエス様は予め「その方(助け主・真理の聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)と教えています。
しかし、主イエスの昇天から聖霊の降臨まで10日を経ました。なぜ、10日間も待たなければならなかったのでしょう。これが、今朝、私たちの考えるべき事柄です。
Ⅰ主イエスの昇天
イエス様の昇天、これは、受肉されたイエス様にとって、父なる神のもとに帰ることです。
弟子たちにとっては、イエス様との別離です。主イエスとの別れは、これが初めてではありません。
6週間前、十字架にかかられる前夜、イエス様が「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14:1-2)と言われた時「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われたにも拘わらず、弟子達の間には動揺が広がりました。
しかし、本日の聖句が語る別れの光景には暗い影が見えません。
彼らは「天を見上げて」ぼう然としているようですが、取り乱しているわけではありません。
恐れてもいなければ、悲しみにくれている様子も見えません。
「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」という言葉を、しっかりと受け止めることができたようです。
「またおいでになります」これは、キリストの再臨を約束した言葉です。
以来、キリスト教会は「主が来られるまで」(Ⅰコリント4:5、11:26)を合言葉にしています。
主の再臨を待ち望んで、困難に耐え、勇気を奮い起こし、希望を掲げてきました。
聖霊の降臨と主イエスの再臨という二重の希望を抱いた人々は、エルサレムに帰り「屋上の間」に戻りました。
これは最後の晩餐が持たれた場所、マルコの母マリヤの家と推察されます(使徒12:12)
Ⅱ集まった顔ぶれ
この時集まった顔ぶれは「ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダ」
11名の弟子たちの他に「婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たち」がおりました。
イエス様が地上を離れた今、この人たちが一堂に会しているのは奇跡です。
顧と、弟子達は雑多な人々の集まりです。生い立ちも気質も職業経験も違います。
漁師がおり、取税人もいました。学者肌のナタナエルや急進的な熱心党のシモンもいました。
性格も、積極的なペテロ、楽観的なアンデレ、悲観的なトマス、ボアネルゲ(雷の子)とあだ名された激情家のヤコブとヨハネ、個性の違いは歴然としています。
彼らはみな、イエス様に惚れ込んで従って来た連中ですが、野心家でもありました。
「だれが一番偉いだろうか」(ルカ22:24)という議論になると、みないきり立って激論をしました。彼らの求心力はイエス・キリストです。イエス様なしに一致団結するのは殆んど不可能です。
興味深いのは「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たち」も加わっていることです。
これまで母マリヤは、イエス様の身を案じておろおろし、兄弟たちは主イエスの活動を快く思っていませんでした(ヨハネ7:3-5)
どうやら、イエス様の復活を契機に、兄弟たちの心は変えられたようです。
いつも主イエスが座しておられた場所は空席なのに、だれも立ち去ろうとはしません。
「みな心を合わせています(ホモスマドン)」まことに美しい光景です。
キリスト者の祈り、教会の祈りに前提があるとするならこの一致です。
イエス様は「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)と言われました。
また「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5:23-24)とも言われました。
何がこのような一致を作り出したのでしょうか。
ドイツのリューティという牧師は「ゼロの一致」と呼んでいます。
だれかが自己を主張すれば、一致よりは違いばかりが際だちます。
この場には、今までのように、執り成してくださるイエス様がおりません。
彼らには相変わらず違いがありますが、もっと大きな共通点を持っている事に気づいたのです。
イエス様がいなければ、自分たちは何も誇ることができない存在だという事実・ゼロの発見です。
相対的には多少の誇りもあるでしょうが、神の前では五十歩百歩だと気づいたのです。
ゼロの発見、いささか屈辱的に聞えますが、幸いな発見です。
もし、人々が、神もなく望みも持たずに「ゼロの一致」を見出したら悲劇です。
絶望的になって、集団自殺するほかありません。
ですから、人は自分を偽って虚勢を張り、背伸びをする傾向があります。
しかし、神を排除した世界で、人々が自己主張を重ねれば、収拾がつかなくなります。
政治政党の寄り合いは典型的です。心は合わせていませんが、利害で結ばれています。
性格も能力も異なる人々が集まって、心を合わせることは至難の業です。
しかし、キリストの弟子たちは、それを可能にしました。
彼らはこれまで「誰が一番偉いか」に関心があり、自分を生かすことに心を用いてきました。
しかし、イエス様の十字架の死を見つめて、価値観を新たにされました(愛して与えて生かす)
十字架が復活をもたらせたように、自分に死ぬことが神に生きることだと気づいたのです。
みな自己主張に死ぬ、そして、ゼロの一致です。
すると、キリストに場所を譲ることになります。その場はキリストの独壇場となります。
後にパウロは、信仰の極意をガラテヤ教会に書き送りました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)と。
私は、教会に様々な個性があるのは神の賜物の豊かさだと信じて感謝しています。
お互いに切磋琢磨するのは良いことです。
しかし、忘れてならないのは「だれが一番偉いだろうか」という愚かに陥らない事です。
神の国の論理は、一粒の麦が死んで初めて多くの実を結びます(ヨハネ12:24)
イエス様は「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい・・・わたしが来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:43,45)と言われました。
Ⅲ祈りつつ待つ
屋上の間に集まった人々は「みな心を合わせ、祈りに専念して」います。
自分の力の限界を知った者たちが、神の恵を求めて祈り始めるのは自然な成り行きです。
祈りは、私たちの心をひたすら神に向かわせます。
日頃は、お互いの中にある違いが、鬱陶しいほど目に付きます(斉藤姉の述懐)
しかし、そのような関心がなければ、他者を労わる交わりが生まれません。寂しい限りです。
ですから“自分のことだけ考えれば良い”と言っているのではありません。
しかし、イエス様を仰ぐ祈りの場では、それらから目が離れていきます。
聖歌に「われと主の間に隔てはなし・・・ただ君いませり」(聖歌289)というのがあります。
イエス様に近づいて、ほかの者が割り込んでくる隙間がないのです。
基本的に、同じ思いで祈りをささげる人々の心が一つとなるのは必然です。
実に、祈りと心の一致には、相乗作用があると思います。
こうして、昇天から聖霊降臨までの10日間、弟子たちは祈りつつ待つことになりました。
最早、なぜ待たされたのか問う必要はありません。この期間は極めて意義深い連帯の時でした。
日常生活の中で、待たされるという事は、決して愉快なことではありません。
3分で食べられるラーメンが売れる所以です。しかし、良いものを手に入れる人は熟成期間を置く。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)ものです。
人は、神の時を待っている間に、次のステップを踏む準備が整えられるものです。
弟子たちは、待つことによって、いよいよ聖霊降臨の必要を認識したことでしょう。
助け主・聖霊を求める祈りは、みなの心を一つに結集させました。
こんなに、仲間が頼もしく、楽しい者になったのは、かつてないことだったと思います。
こうして生まれた教会の一致の只中に、聖霊は満を持して下られました。
それがペンテコステです。