使徒の働き1章15-26節

20060625            器を備えて待つ

使徒の働き1章15-26節

復活されたイエス様は、昇天に際して、弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と、福音宣教を命じました。

その時、弟子達の心意気も、今まで経験したことのないほど高ぶり(興奮)を覚えました。

しかし、イエス様は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい・・・聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と、手順を示して昇天されました。

昇天、これは、主イエスとの二度目の別離だと申し上げました。

最後の晩餐に続くゲッセマネの園では、主イエスから引き裂かれた弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃走・離散しました(マタイ26:56)

今度は違います。彼らは共に集まって「みな心を合わせ、祈りに専念して」います。

今や弟子たちは、個々の違いを乗り越えて、調和と一致を見出し、聖霊の降臨を待ち望んでいます。

本日の聖句は、主の約束を待ち望む弟子達が、怠りなく最後の準備をしている光景を描写します。天来の恵の雨を受け止めるためには天水桶が必要です。教会も、人材という器を用意して待ちます。

器を用意するといえば、2800年も前のことですが、イスラエルの故事を思い出します。

ある日、預言者エリシャのもとに、一人の寡婦がやって来ました(Ⅱ列王記4:1-4)

彼女は自分たち家族の窮状を訴え、二人の子どもたちが奴隷に売られないようにと懇願します。

そこで、エリシャが訊ねます「家にどんな物があるか」と簡潔です。

彼女は「何もありません。ただ、油の壷一つしかありません」と絶望的です。

すると、エリシャは「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つ二つではいけません・・・」と命じました。

こうして、すべての空の器に油が満たされ、家族の生計が支えられました(Ⅰ列王17:14-16参照)

聖書の中で、油は聖霊の比喩です(Ⅰヨハネ2:27)メシヤとは、油を注がれた者のことです。

水も、いのちの水と呼ばれて、神の恵を語るものです。

イスラエルの詩人は「神の川は水で満ちている」(詩篇65:9)と、歌い続けて来ました。

預言者エゼキエルも「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(47:9)と預言しました。

イエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)と言われました。

いのちの水を受け止めるには、天水桶・空の器が必要です。

ペンテコステを前に、弟子たちが備えなければならないのは、聖霊の油を受け入れる空の器です。

2000年前のペンテコステ以来、聖霊は助け主として、私達と共におられます。御霊を崇めて下さい。

聖霊を迎え入れる器は、空っぽが最善です「自分を捨て従がって来なさい」と言われた所以です。

Ⅰその職は、ほかの人に

弟子たちを中心にして、みなが心を合わせて祈っていた時、ペテロは一つのことにけじめをつける決断をして立ち上がり、仲間に呼びかけました。

それはユダの裏切り行為と、彼の自殺によって生じた欠員の補充です。

弟子たちにとって、3年間、寝食を共にしたイスカリオテ・ユダの出来事は悪夢のようでした。

ペテロを始めとして、弟子たちはみな主に負い目があります。みな罪を犯し失敗を重ねて来ました。

しかし、ユダのケースは取り返しのつかないものでした。

ユダは、主イエスを僅かな銀で敵に売り渡しただけではありません。

ユダも後悔はしましたが、悔い改めて再起することはなく、自殺の道を選びました。

弟子たちにとって、何とも後味の悪い事件です。彼の力になれなかった事が悔やまれたでしょう。

どこかで、気持ちの整理をしなければなりませんが、一日延ばしに遅らせてきました。

しかし、この問題を乗り越えなければ、弟子たちは前進することができません。

ペテロは、ユダの問題を“なぜユダは・・・”と、後ろ向きに考える事をしませんでした。

彼の理解を越えたことだったからです。彼は前に向かいます。

「聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです」と、事実をそのまま受け入れました。

私たちの周辺でも、時には、理解できない事柄が起こります。

その時、全世界は神の御手の下にある事を想起して勇気を得、主に信頼して踏み出してください。

イエス様は、ご自分の使命を遂行する後継者として、12人の弟子たちを選びました。

12は、イスラエルの12部族を表すものです。

弟子たちは、12人で一組の集団として召集されました。一人が欠けても十分ではありません。

ペテロは詩篇109:8を引用して、ユダによって生じた欠員を補充するのが正しいと提案します。

仲間たちもみな、ペテロの意見に同意したようです。

私たちも、この欠員補充というできごとから学びます。

神のしもべ(器)がどのように選ばれて「土の器に宝を持つ」(Ⅱコリント4:7)という確信に至るのか、興味のあるところです。

器の用意と申しましたが、ここでは傷一つない完全無欠な器が求められているのではありません。

所詮、人は地のちりから造られた土の器に過ぎないものです。

どのようにして神の用に適う、神の器になりうるのかを考えてみましょう(Ⅱテモテ2:20-21)

Ⅱ弟子補充の条件

だいぶ古い話ですが、ある時スチュワーデスをしておられた方が、自分たちに求められた採用条件に憤慨していました(当時は容姿端麗、身長160センチ以上、体重は50㌔以下とのこと)

自分の努力ではどうすることもできない容姿や背丈まで条件にするのは怪しからんというわけです。時代とともに条件は変わりますが、今でも就職試験に臨めば、厳しく能力や適格性が問われます。

最近では喫煙者を採用しない会社もあるそうす。

ペテロは、21-22節で「主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」と見解を述べています。

唯一の条件は「いつも私たちと行動をともにした(生活の出入りを共にした)」という一事です。

これは、知恵や能力が真っ先に問われる世間の集団とは異なります。

この言葉は、ガリラヤ湖畔の危機的な状況を想起させます「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(ヨハネ6:66)事がありました。

あの時、ペテロは熱誠を込めて「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」(ヨハネ6:68)と告白して、イエ様の側に踏み止まりました。

私たちの場合なら、イエス様の復活を確信して、主に従う決意のある者と言えるでしょう。

イエス様のまわりに群がり集まった人々はたくさんいました。

イエス様は、多い時には、5千人の群集に囲まれました。しかし、大方は興味本位の人々でした。

好奇心に駆られて集まり、都合が悪くなると潮の引くように離れて行った連中が多かったのです。

そんな中で、ともかく最後までついて来た人々の中には、並々ならぬ決意があった筈です。

ペテロ自身も大きな躓きをしました。イエス様を三度も知らないと否定したのです。

ですから、転んでも起き上がってついて来た人々,その点を大事にしたのだと思います。

私達の信仰を様々に表現できます。イエス様を信じる、主と共に生きる、主に従う、主を愛する、主の言葉を大切にする。これらはみな、同じ心が求められます。

イエス様の言葉に従って、懸命に生きる決意こそ、福音を担う主の器の条件です。

こうして選ばれた者の使命は、主イエスの復活の証人となる事です(2:24,32、3:15、4:10,33、5:30)先日「死の壁」という書物をいただき、読んで見ましたが、何の慰めにもなりませんでした。

死という鉄壁を崩すものは、キリストの復活のほかにありません。

宗教がご利益を掲げ、道徳や裁きだけを語るのは容易です。

しかし、人が本当に必要としているのは、赦されること、安心を得ること、生きる希望と力です。

これに応えることができるのは、イエス様の復活の福音だけです。

イエス様は言われます「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と。

Ⅲくじによる選択

さて、誰の目にも相応しいと考えられた候補が二人いました。

バルサバ、或いはユストと呼ばれたヨセフとマッテヤです。

弟子たちは、その決定を神の導きに委ねました。

具体的には「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください」と祈り、くじを引きました。

基本的には律法の定めに従い、何事もルールに従って行われます。

たとえば、近親者の贖いなどには優先順位があります(ルツ4章)

しかし、このような場合は、公平を期して、くじの習慣に従いました。

聖書に「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)とあります。くじそのものは単純な行為ですが、人々は祈りに託して主の導きを求めて来ました。

その結果、くじはマッテヤに当たり、彼は十二人の一人となりました。

くじ(クレーロス)という言葉には、与えられた分という意味があります(偶然とは考えない)

それは単なる幸運以上のものです。くじを引くものたちが、そのように認識してきたのです。

自分に関する結果を、神からの賜物として受ける時、誇ることもなく妬むこともありません。

バプテスマのヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」(ヨハネ3:27)と言っています。潔い限りです。

聖霊が教会に注がれた後、使徒たちは真理の御霊に導かれています。

以来、くじ引きをすることはなくなったようです(因みに、私の属する日本同盟キリスト教団の理事選挙では、決着がつかない時は最後にくじを引く事になっている)