使徒の働き1章1-8節

20060528          父の約束を待て

使徒の働き1章1-8節

しばらく「使徒の働き」から説教させて戴きます。

福音書の主人公はイエス・キリストです。

福音書は、イエス様のお姿を鮮やかに描き出しています。

使徒の働きは、弟子たちの宣教活動の記録です。

しかし、昔から聖霊行伝とも言われて来ました。

主イエスが約束してくださった助け主・真理の聖霊が、使徒たちを励まして福音宣教を遂行させて下さったからです。

確かに、使徒たちの働きには目覚しいものがありました。

しかし、イエス様が「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われた通り、真の原動力は聖霊なる神です。

使徒の働きの著者は、ルカ福音書を著したルカです。

この両書とも、ルカがローマの高官・テオピロに書き送ったものです。

ルカは福音書の冒頭で「尊敬するテオピロ殿」と記しましたが、使徒の働きでは、敬称を略して「テオピロよ」と呼びかけています。

おそらく、福音書を献呈した後、両者の関係がいっそう親密なものになった証しと言えるでしょう。

福音書は、歴史家ルカの綿密な調査記録です。

使徒の働きの一部は、ルカがパウロに同行して体験した事柄の記録でもあります。

ルカは、執筆中、さぞかし心を熱くしたことでしょう。

使徒の働きを読み進めながら、私たちも福音宣教の思いに心を熱くして、宣教に力を注ぎ出すことができるようになるなら幸いです。

初めに、なぜ「使徒の働き」を選んだのかを説明いたします。

主イエスの十字架と復活から2000年が過ぎ去りました。

時には“2000年前にパレスチナに生まれたかった”と言う人がいます。

でも“十字架につけよ”と叫ぶ群衆の一人になっていたかもしれません。

“イエス様の声を直接聞けたら”などと言うのは、無いものねだりも甚だしい事です。

使徒の働きは、人間の弱さや愚かさを見つめさせてくれます。

同時に、神の力強さ、聖霊の恵豊かさ・確かさを教えてくれます。

地上にある教会は、試練や困難を避けられません。

しかし、万事を益としてくださる神は共におられます。

神に望みを置く神の教会は永遠に不滅です。

今朝の聖句は、復活された主イエスが、昇天に際して再臨を約束された時に語られた言葉です。

主に再び会う事を待ち望む者は、主の言葉をぜひ是非心に留めてください。

Ⅰはやる心

3節には「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」とあります。

人間は、アブラハムの昔から「神と向き合い、神とともに」(創世記17:1)歩むように求められてきました。

預言者イザヤは「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12)と勧告します。

ヨハネも「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」(黙示録21;6)と言われるイエス様の声を聞いています。

これらの言葉は、私たちの人生が決して孤独ではないと励ましています。

私たちが前後左右を取り囲む神の恵みの中を生きていると教えています。

神が見守ってくださるのですから感謝です。

しかし、現実生活の中で、神の言葉に歩調を合わせるのは意外に難しいものです(Ⅱコリント4:7-9)

御存知のように、弟子たちは、3年間イエス様と寝食を共にしました。

十字架に向かうイエス様の厳しい道を、一歩も遅れず従って来ました。

彼らは、民衆がイエス様を誤解して離反した時も、しっかりと踏み止まりました。

ペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ6:68-69)と、熱誠あふれる告白をしました。

彼は、最後の晩餐の席で「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ22:33)と意気軒昂です。

しかし、ペテロも他の弟子達も、実際に主イエスの十字架に直面した時は、茫然自失でした。

主が復活されても、復活を容易に信じられません。

彼らが復活を確信するまでに40日かかりました。

40日を経たこの日、弟子たちは「もう大丈夫」と考えたようです。

死からよみがえられたイエス様が一緒にいることを確信したからです。

彼らは“ついに祖国再建の旗揚げをする時が来た”と考えたようです。

6節の「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」という問いかけは、弟子達の決意が整い、命令を待つ心の準備ができていることを伺わせます。

弟子たちは、十字架のできごと以来、いつも出遅れてきました。

しかし、この時ばかりは主の声に即座に応じることができると胸を張ったのではないでしょうか。

主イエスのゴーサインが待ちきれないほど心が熱くなっています。

冷えた心を暖めて燃え上がらせるのは容易ではありません。

しかし、一度燃え上がると、その勢いを制御するのは更に難しいものです。

弟子たちの心は今熱く燃え上がっています。

Ⅱ父の約束を待て

しかし、主イエスは、満を持している弟子たちに向かって「父の約束を待ちなさい」と命じました。「父の約束」とは、イエス様が懇ろに語られた「助け主、真理の御霊(聖霊)」の到来を待つことです(ヨハネ14:16-17、26、15:26、16:7-8、13)

イエス様は、ご自分に代わる「もうひとりの助け主」として聖霊を約束されました。

この聖霊が、弟子達(私達)を教えて真理に導きいてくださいます。

イエス様が去られた後の孤独を慰め、福音(キリスト)を証言する力となります。

なぜ、こんなに聖霊に依存するのでしょうか。

教会の営みと福音宣教が神の業であり、人間が虚しい誇りを持たないためです。

神の業は「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)なされます。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」

約束の聖霊は、イエス様が昇天されてから10日後に降臨されました(今年は来週がペンテコステ)ですから、この10日間は、イエス様が去り、聖霊をひたすら待ち望む日々です。

言うまでもありませんが、全世界を造られた主の目は、全世界に向けられています。

主の宣教命令は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16:15-16)

しかし、イエス様は、聖霊の賜物を受けるまでは「エルサレムを離れないで・・・父の約束を待ちなさい」と命じました。

最後に、聖霊を待ち望む者たちの心構えを聖書から引用しておきます。

1、ヨハネは「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」(ヨハネ7:39)と書きました。

2、ルカは「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:13)と、主イエスの言葉を記録しています。

3、また「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です」(使徒5:32)と、使徒たちの言葉を記録しています。

聖霊は「信じ・求め・従う」者たちと共にいます。

今年のペンテコステは、来週の6月4日です。

私たちは、既に聖霊が教会に現臨しておられると信じています。

しかし、来週のペンテコステまでの七日間を大切にしてください。

霊的に豊かに過ごすために「信じ・求め・従う」という言葉を反芻してみてください。

Ⅱ主の証人となる

聖霊降臨の目的は、人々に「イエスは主です」(ヨハネ15:26、Ⅰコリント12:3)と認識させます。また、この世界に「イエスは主です」という、愛情と信頼に満ちた告白をさせるためです。

その橋渡しとなるのが私たちキリスト者です。

これを可能にしてくれるのは聖霊です。

イエス様も「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)と言われました。

「使徒の働き」の展開は、弟子たちが聖霊を待ち望み、聖霊を受けて、果敢な宣教を進めていった証言です。

それは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」と、限りなく広がって行く宣教のビジョンの礎を据えました。

私たちもキリストを証言する言葉に練達し、地の果てを見つめる眼差しを養いたいものです。

身近であるにも拘わらず、届きにくい「自分の家族」にも福音が届くように、心を尽くしてください。