あなたがたの収穫を増すため   レビ記19章19~25節

2020年9月20日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【序】聖なる者としての歩み
 聖なる神の前で、聖なる者となることが求められている私たちです(2)。聖なる者としてのきよい歩みとは、どんな歩みなのでしょうか。19章から、①それは精神的・観念的ではなく、私たちの生活に密着した実際的な生き方であること、②聖なる神の前で整えられて初めて、私たちの人間関係が整えられること、③そこには正しさだけでなく愛があること、を今まで教えられてきました。
 さらに今日の個所ではいくつかの興味深い掟が命じられています。

【1】 異質な二つのものを交わらせてはいけない
 19節において、神様は種類の異なった二匹の家畜を交わらせてはいけないこと、二種類の種を畑に蒔いてはいけないこと、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはいけないこと、を命じました(19)。
技術の進歩した現代においては、異種の家畜を交配させることによって、より強い家畜を造り出すことがあるようです。また、同じ畑に二種類の種を蒔いても、あるいは二種類の糸で布地を織っても、特に大きな問題にはならないかもしれません。しかし、当時のイスラエルにとって、異なった二つのもので一つのものを造り出そうとする時、家畜であれ畑であり衣類であれ、素材を痛めてしまう危険がありました。よって、この命令はとても実際的なアドバイスだったと考えられます。
 しかし同時にそこには霊的な意味が込められていました。申命記22章9節にも同じような掟が記されていますが、そこではこのように記されています。「ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種と、ぶどう畑の収穫全体とが、聖なるものとして取り分けられてしまうことのないように」。聖なるものと俗なるものが混じり合い、しかも、それが聖なるものとして取り分けられてしまうことがないように、と警告されています。「異質な二つなものを交わらせてはいけない」という掟を通して、聖なるものと俗なるものとの混合を禁じていることがわかるのです。
 イエス様も「だれでも二人の主人に仕えることはできません」と命じられました(マタイ6の24)。パウロも「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」と命じました(Ⅱコリント6の14)。聖なる者と俗なる者を一つにして、両方に仕えることはできません。必ず一方を重んじ、他方を軽んじるようになるからです。
 神様が私たちに求めておられるのは、中途半端な信仰ではなく、どっちつかずの曖昧な態度でもなく、神のみを主として従っていく信仰です。

【2】 あなたがたの収穫を増すため
 23節においてはさらに興味深い掟が記されています。やがて約束の地に入り、その地に果樹を植える際、たとえ実がなったとしても3年間は禁断のものと見なされ、食べてはいけませんでした。4年目になって初めて聖なるものとなり、神様に献げられますが、そこでも民はその実を食べることができませんでした。彼らがその実を食べることができるのは5年目の収穫の時からです。民が収穫の恵みに預かるために、5年も待つ必要があったのです。
 神に献げるためにふさわしい実となるために最低4年かかり、その年に最高の果実が実ったとしても、それはすべて神様のものでした。民が食べるのは5年目になってからです。つまり、これは神様を中心とせよ、ということです。すべての恵みは神様から来ていること、その地も神様の所有であること、そして神様によって生かされていることを彼らが知るために、これは必要とされた掟でした。
 私たちであれば収穫の一年目から食べてしまうかもしれません。4年も待つのは結構大変です。しかも4年目に最高の実がなっても、それはすべて神様のものです。私たちであれば4年目にはどんどん収穫して、もちろん食べてしまうし、収穫したものをどんどん売って、儲けたくなるかもしれません。しかしその間に私たちは神様のことをすっかり忘れてしまうでしょう。そして、生かされている恵みを忘れ、自分の力で生きているように勘違いしてしまうに違いありません。
 これらの掟は実は「あなたがたの収穫を増すため(25)」に定められたものでした。神を第一とする者を、神様は必ず祝福して、私たちの収穫を増し加えて下さることがわかります。イエス様も言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてそれに加えて与えられます。(マタイ6の33)。」 神様は神様を第一に覚え、神様との関係を何よりも優先する者に、豊かに祝福を注いで下さるのです。

【3】 まとめ
 最後に神様は命じられました。「わたしはあなたがたの神、主である(25)」。神様はいつでも私たちに対して、ご自分が主であることを宣言されています。この方を第一とすることがいつも求められています。どうか、この世のものと私たちが一つになってしまい中途半端な信仰になってしまうことがありませんように。主である神様こそは、私たちが心から仕えるべきお方です。神の国と神の義を第一に求めていこうではありませんか。

【祈り】神の国と神の義をまず求めることができますように。