ただ、イエス・キリストの啓示によって ガラテヤ人への手紙1章11~12節

2020年9月27日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

牧師になって喜びを感じるのは、やはり人が救われるのを見る時、そして救
われた人が変えられていく姿を見る時です。かつてフィリピンに留学していた
時に、日本人留学生とともに聖書の学びをしていた時があります。そのグルー
プから聖書のことばに導かれ、クリスチャンになる人が多く起こされました。
その中から、その後、牧師になった人までいます。聖書のことばは本当に生き
ていて、人間を造り変えていくことを目の当たりにしました。私が牧師となっ
て神に仕えたいと思った最初のきっかけでした。
 他人事ではありません。生きているみことばの力を体験できるのは、キリス
ト者である私たち自身の喜びではないでしょうか。
【1】 あなたがたに明らかにしておきたい
 聖書にも、みことばによって人生がすっかり変えられてしまった人が多く出
てきます。パウロがその内の一人です。イエス・キリストと出会った後、パウ
ロはキリストの福音を伝える伝道者になったのですが、そんなパウロを信じら
れない人々が、当時の教会の中にたくさんいました。どうしてかと言うと、以
前の彼はキリスト教を徹底的に嫌う大迫害者だったからです。かつてのパウロ
が目指していたことは、教会の根絶とキリスト教徒の絶滅でした。パウロは、
当時のクリスチャンたちがその名前を聞くだけで恐れおののいてしまうくらい
の残忍な男だったのです。
 よってパウロが福音の伝道者になったと聞いても信じられない人々がたくさ
んいました。バルナバという人の仲介もあって、少しずつ、キリスト教会に受
け入れられていったのですが、パウロに対する不信感を抱く人たちは教会の中
にその後もたくさんいた、と考えられます。
特にパウロが異邦人への伝道を開始し、ユダヤ教の伝統、特に割礼という習
慣を軽んじているように見えた時、そんな人々のパウロの対する不満が爆発し
ました。そして、パウロは正統な使徒ではないこと、パウロの教えている福音
は間違っていることを、方々で言いふらす人が出て来たのです。そんな人たち
が、パウロによって伝道され、パウロによって築かれたガラテヤ地方の教会に
まで入り込んできて、教会の信徒たちを惑わすようになりました。
パウロは、そのような事態を憂いて、このガラテヤ人への手紙を書きました
。当時のパウロは教会の外からだけではなく、内から吹いてくる逆風と闘いな
がら、宣教活動を続けていたのです。
11節の冒頭でパウロは「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたい
のです」と語りました。パウロの強い気持ちがここに、込められています。こ
こでパウロが明らかにしたかったことは、パウロが伝えているところの福音は
、人間から得たものではなく、キリストの啓示によって受けた正真正銘の福音
である、ということです。
これをどうしても主張しなければなりませんでした。パウロの使徒としての
立場とパウロによって伝えられた福音を否定する人たちが当時、たくさんいた
からです。ただ、パウロは自分自身の立場を守りたかったのではありません。
これは、福音を守るため、そして福音によって建てられている教会を守るため

の真剣な戦いでした。福音を守るための闘い、教会を守るための闘い、という
闘いがあることを是非、覚えたいと思います。
【2】 人間によるものではない
 パウロはまず主張しました。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではな
いし、人間から受けたのでもないし、人間から教えられたものではない、とい
うこと…つまり人間によってではないということを強調して主張していること
がわかります。
 これくらい強調されなければならない理由がありました。それは、福音はい
つでも人間的な力によって受け止められ、相対化され、歪められてしまう危険
にさらされているからです。教会で教えられている福音がもし歪められてしま
ったら、教会は倒れます。教会はいのちを失います。教会は神のいない人間の
組織になってしまいます。だから私たちも福音を人間によって受けることがな
いように注意しなければなりません。
 人間が用いられることはあります。人間を通して神が語られることもありま
す。しかし、それはあくまでも手段にすぎません。福音は決して人間の力によ
って勝ち取られるものではありません。自分の力と知恵とによって福音を獲得
しようとするならば、それはもはや福音ではないことを、私たちは肝に銘じる
べきです。
【3】 キリストの啓示によって
 それでは福音をパウロはどのようにして得たのでしょうか。パウロは一言、
語りました。「ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」 
 「啓示」と訳されていることばは、隠されていたことがその覆いを取りのけ
られて、はっきりと現わされること、を表しています。これはパウロ自身が経
験したことでした。復活のイエス・キリストと出会った後、パウロは一時目が
見えなくなるという経験をしました。しかしその後、自分の目からうろこのよ
うなものが落ちて、再び目が見えるようになりました(使徒の働き9の18)。
 パウロは以前からイエス・キリストのことを聞き知っていましたし、その教
えもよく把握しておりました。彼はイエス・キリストのことをよく知っている
と自覚していたのです。しかし彼は実はイエス様のことを本当の意味では知り
ませんでした。彼の目に覆いがかかっていたからです。自分では見えると思っ
ていたのですが、実際は全くの盲目でした。
 しかし、その覆いが取り除かれた時にパウロは初めて、キリストによっても
たらされた福音を知る者となりました。福音の内に生きて働いている神の力を
経験する者となりました。パウロは福音をそのようにして、ただイエス・キリ
ストの啓示によって受けたのです。キリストの啓示によって受けたからこそ、
それは福音でした。パウロは福音を福音として受け止め、福音として語ること
ができたのです。
 私たちの目にも実は覆いがかかっているのではないでしょうか。自分ではわ
かっている、自分では見えていると思っていても、実際には何もわかっていな
い、ということが多いのではないでしょうか。目が見えると思っていた私たち
は、実は盲目なのではないでしょうか。
 そんな私たちはイエス・キリストによって目の覆いを取りのけてもらう必要

があります。パウロのように目からうろこのようなものが落ちるという経験が
私たちにも必要なのです。
 自分たちが盲目であることを私たちは認めようではありませんか。目の覆い
をキリストによって取りのけてもらうように祈ろうではありませんか。そして
、ただイエス・キリストの啓示によって、福音の素晴らしさをはっきりと見せ
ていただこうではありませんか。
【4】 福音が福音として
 パウロによって伝道され築かれたテサロニケの教会は、福音を証しする教会
だったことがわかります。「主のことばがあなたがたのところから出て、マケ
ドニアとアカイアに響き渡った」とパウロによって評価されているからです(Ⅰ
テサロニケ1の7)。福音が福音として語られる時、それは響き渡る、という
ことがわかります。 
 私たちの教会の語ることばは、どれだけ響き渡っているでしょうか。今のコ
ロナ禍にある日本中、世界中に福音がとどろいてほしいと思います。是非、福
音を福音として受け止め、福音として宣べ伝えていきましょう。
【祈り】
 私たちの目の覆いを取りのけてください。そして福音の素晴らしさを目の当
たりにし、福音を通して働かれる神の力によって生かされますように。