さばきにおいて不正をしてはならない   レビ記19章33~37節

2020年10月11日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 寄留者を虐げてはならない
 信仰者としてのきよい歩みの中に、障がい者(14)や老人(32)などの社会的弱者に対する愛が含まれていることを、私たちはレビ記19章で学んできました。今日の箇所では寄留者に対して注ぐべき愛について教えられています。
 ゼカリヤ書7章10節で「やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな」と教えられているように、寄留者は、やもめや孤児と同様に、虐げられやすい存在でした。その理由は、①社会的弱者であったことと、②異国人だったことにありました。社会に対する貢献度が低いという理由で、さらに、自分たちとは違う文化・価値観をもっている異国人として、寄留者はイスラエルの社会から排除されがちでした。
 しかし神様は寄留者を虐げてはならないし、その人を自分たちの国で生まれた一人のように、自分自身のように愛しなさい、と命じています。私たちの国に住んでいる外国の方々はどんな思いで日々を歩んでおられるでしょうか。私たちはその人々を、社会に対する貢献度が低いという理由で、あるいは単に異質な人であるという理由で、排除してしまっていることはないでしょうか。
 なぜ寄留者を虐げてはならないのでしょうか。その理由として教えられていることは、イスラエルの民も「かつてエジプトの地では寄留の民だった」との、彼ら自身の過去の体験にあったことがわかります。つまりイスラエルがかつてエジプトの地で奴隷であった時の体験が大事だし、その体験が寄留者を愛する際に用いられていくということがわかります。
 新約聖書でパウロは、私たちも以前は「キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たち」だった、と教えています(エペソ2の12)。キリストと出会う前の私たちは罪と死の奴隷状態で、神の民からは除外され、この世にあって望みも神もない「他国人」でした。その救われる前の「他国人だった」時の私たちの体験がとても大事だし、救われた後に、救われていない人々を愛する際に、その体験が豊かに用いられていくことに気づかされるのです。
 私たちの他者に対する愛は、しばしば共感の乏しい、善意の押し付けで終わってしまうことがあります。私たちと同じように試みにあわれたイエス様は、私たちの苦しみに共感できる方です(へブル4の15)。イエス様の愛には、罪のうちで苦しんでいる私たちに対する共感が含まれています。私たちの他者に対する愛には、どれだけそのような共感が含まれているでしょうか。
 
【2】 さばきにおいて不正をしてはならない
 次に教えられていることは「さばきにおいて不正をしてはならない」ということ、特に不正な量りを用いずに、正しい量りを用いなさい、ということが命じられています(35~36)。
 人々はなぜ正しい量りではなく、不正の量りを使ったのでしょうか。それは人を欺いて、自分だけが利益を得るためです。それは欲深い人間のなせる業でした。そしてその結果、力のない弱い人々が犠牲になるのです。そのような「不正の量り」が現代の世の中にもあふれているのではないかと思います。
 不正の量りを使っているという自覚がある内は、まだ修正が効くかもしれません。しかし、その自覚がない時が危険です。それは自分自身が量りになっている時。自分が量りになってしまっているために、その量りが歪んでいることに気づきません。その結果、不正なさばきがなされていることにも気づかず、人を苦しめていることにも無自覚になってしまうのです。
 そうならないために正しい量りをもつ必要があります。正しい量りは私たちの内側にではなく、外側にあります。神のみことば・聖書が私たちの正しい量りです。私たちは私たち自身の歪んだ正義によって判断するのではなく、聖書に基づく神の正義によって、自らと他者をさばく必要があるのです。

【3】 神の愛から始まる
 最後に神様は「わたしは、あなたがたをエジプトの地から導き出した、あなたがたの神、主である」と宣言されました(36)。私たちはなぜ神に従うのか。それは神が私たちの救い主であり、神の愛が私たちに示されたからです。
 私たちの他者に対する愛は、自分自身が出発点になりがちです。それゆえに他者に対する共感の乏しい、自分の正義の押し付けになっていることが多いのです。そして、その矛盾になかなか気づきません。キリスト者でありながら、清められていない肉の性質に支配されていることが多いのです。
 しかし本当に愛されているという安心感がある時、私たちは自分の姿を直視することができます。本当の愛を知って初めて、私たちは自分が握りしめているものを手放すことができるのです。
 まず、神が私たちを愛して下さいました。神様が私たちを一方的に救い出して下さいました。すべては神の愛から始まります。私たちは祝福を受けるために神に従うのではありません。祝福されているからこそ、神に従うのです。

【祈り】どうか私たちの人に対する愛が、キリストの心を伴う真実なものとなりますように。そのために、あなたの愛の内を歩ませてください。