信仰によって義と認められる       創世記15章1~6節

2021年8月8日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 主の語りかけ
 今日の聖書の箇所を読んでみて羨ましいと思うことがあります。それはアブラハムが苦しんでいる時に、必ず神様の語りかけがある、ということです。13章を学んだ時もそうでした。それまでともに旅を続けてきた甥のロトとの対立が生じて落ち込んでしまった時、神様は「目を上げなさい」(13の14)とアブラハムに語りかけ、励ましてくださいました。
 今日の箇所でも、難しいこの世の現実と複雑な人間関係に直面し(14章)、アブラハムは恐れていました。しかし、そんなアブラハムに神様は「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」と語りかけ、励まして下さったのです(1)。

【2】 アブラハムの応答
 神様の優しい語りかけを受けて、アブラハムは自分の中に隠し持っていた戸惑いを、神様に正直にうちあけました。それは「あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りなるでしょう(3)」という戸惑いです。
 アブラハムの内で日々募っていた悩みがありました。それは神様がアブラハムになかなか子どもをくださらない、という悩みです。「あなたの子孫を祝福する」との約束を神様からいただいた時から、10年近くもの時間が経過してしまいました。アブラハムも妻のサラも、子どもを産むことのできる年齢ではなくなってしまいました。そこでアブラハムは神様の約束を自分なりに解釈し、自分ではなく、自分のしもべエリエゼルを通して神様の約束が実現されていく、と考えてしまったのです。
 ここに神様を信じながらも、自分の未来を自分の考えで操作しようとしているアブラハムの姿が表わされています。神様に対する信仰がないわけではありません。しかしアブラハムは自分の未来を自分の力で切り開こうとしています。神様のアブラハムに対する計画を信じながら、その一方で神様の御手に完全に委ねきることのできない一人の信仰者の葛藤を感じさせられるのです。
 このような内的葛藤がアブラハムの中で日々募っていたことでしょう。しかしアブラハムはこの時、神様の優しい御手に支えられながら、遂に自分の内側を正直に神様の前に注ぎ出すことができました。そのこと自体がアブラハムにとっての大きな成長だったのではないでしょうか。
 私たちも、神様の語りかけを聞き、みこころに触れる時、私たちの心が開かれて、私たちが内で隠し持っていた不安や恐れや悩みを、神様の前に注ぎ出すよう導かれることがあるのではないでしょうか。
 
【3】 神との友情
 アブラハムのそんな率直で正直な祈りを受けて、聖書には「すると見よ、主のことばが彼に臨んだ」と記されています(4)。まるで神様がアブラハムのそのような祈りを待っておられたかのようです。そして「ただ、あなた自身から生まれてくる者が、あなたの跡を継がなければならない」と約束してくださいました。
 さらに神様はアブラハムを外に連れ出されました。そして「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数を数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。(5)」とアブラハムを励ましてくださいました。
 神様の時にかなった素晴らしい励ましのことばでした。アブラハムは、天地万物を支配しておられる神様の偉大さを感じたに違いありません。その偉大な神様がアブラハムにしっかりと目を留め、アブラハムの人生に関わって下さること、アブラハムの悩みをしっかりと受け止め、アブラハムの人生を祝福して下さる幸せをアブラハムは、この時、実感したのです。

【4】 信仰によって義と認められる
 そのようなみことばをいただいて、アブラハムは主を信じました(6)。そして、それゆえにアブラハムは彼の義と認められたと、そこに記されてあります。アブラハムの信仰による応答があったこと、そして神様がその応答を喜んでアブラハムを受け入れて下さったことがわかります。
 自分の未来を何とか自分の力で画策し、自分で切り開こうとしていたアブラハムは、この時、神様の用意して下さっているご計画に委ねたのです。アブラハムは、神様のことについてすべてを知り尽くしているわけではありませんでした。神様のご計画について、わからないことがまだたくさんありました。しかし、それでもアブラハムは神様に信頼しました。自分の願望に支配される人生から解放されて、神様の用意される希望に生かされる人生へと、アブラハムは導かれたのです。

【5】 結び
 今日の聖書の箇所を通して、私たちにとっての祈りとは、神様との友情を経験する時であることがわかります。私たちを無条件に愛して下さる方に向かって私たちが心を開くこと。私たちの内側を神様に注ぎ出して、この方に信頼すること。そのような私たちを、神様はしっかりと受けとめて下さいます。義と認めて下さいます。そのような神様との友情に、私たちはいつも招かれていることを覚えようではありませんか。