聖なる生きたささげ物として  レビ記11章1~8、43~45節

2020年8月2日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【1】 食べてはよい生き物と食べてはならない生き物
 11章から15章まで、清浄と不浄に関する律法が続いていきます。11章で神はイスラエルの民に、食べてよい清い生き物と、食べてはならない不浄の生き物に関する規定を与えられました。ひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので反芻する動物は基本的にきよい動物です。ところがひづめが分かれていない、例えばらくだ、岩だぬき、野うさぎ、豚は汚れた動物で、食べてはいけません。そのような区分がこの後、魚、鳥、昆虫と続いていきます。
 さらに死体による汚れ(11章後半)、出産の汚れ(12章)、皮膚病の汚れ(13~14章)、漏出の汚れ(15章)と続いていきます。これらの教えは一体、今日の私たちに何を教えているのでしょうか。これらから発せられているメッセージを一言で言うならば「きよくあれ」ということです。神ご自身が聖なので、私たちも聖なる者とならなければなりません(44~45)。そのような自らを聖別することの大切さが、これらの個所で教えられています。
 これらの記述は当時の時代の中で記された文章なので、今日の私たちにそのまま当てはまるわけではありませんが、神の前で自らを聖別することの大切さは、昔も今も変わりません。そうでなければ聖い神様と親しくお交わりすることはできないし、神様のご栄光を私たちが表すこともできないからです。
 
【2】 求められるきよさ
 教会は「聖なる宮」と呼ばれ、信徒は「聖徒」と呼ばれています。今日に生きる私たちも神の前でのきよさが求められています。きよさとは決して堅苦しいことではありません。別の言い方をするならば聖霊に満たされることです。そして聖霊の実を実らせることです。よって私たちの幸せとつながっています。神様の恵みに生かされるために、私たちのきよさが求められているのです。
第一に、私たちは生活全体に渡るきよさが求められています。主が私たちに求めておられるのは、心やたましいのきよさだけではありません。生活のあらゆる領域でのきよさが求められています。何を食べるのか、何を飲むのか、時間やお金をどのように用いるのか…。目に見えない部分だけでなく、目に見える私たちの生き方すべてにおけるきよさが求められています。
レビ記の記述で汚れた動物ときよい動物を分ける規準は何か、研究者の間で今までいろいろと議論されてきたそうです。20世紀に入って、私たちの衛生面や健康面に配慮されている規定であることがわかってきました。神は私たちの身体が健やかであることを願っておられます。与えられたからだを相応しく管理することによって私たちは神の栄光を現わすことができます。「自分のからだをもって」(Ⅰコリント6の20)、また「生活のすべてにおいて」(Ⅰペテロ1の15)、私たちは神の栄光を現わすのです。
同時に私たちはきよさにおいて継続的な訓練が必要です。アブラハムやモーセやダビデのような偉大な信仰者も信仰者なのに罪を犯し、きよめにおける訓練が求められました。世俗の中に生き、世俗のものがしっかりとしみ込んでいる私たちは、継続的にきよめられていく必要があります。自分の願望によってではなくみこころに添って、肉によってではなく御霊によって導かれなければなりません。

【3】 どうすればきよい者となれるか
 それでは私たちはどうすればきよい者となれるのでしょうか。第一に神を恐れることです。私たちに聖別を求める神はまず「わたしはあなたがたの神、主である(44)」と宣言されました。私たちはいつでも神の前に生かされています。そして、この方を主として覚え続けることが求められています。
 神を恐れるとは、神の前でビクビクして生きることではありません。神を尊敬し、神を大切にすることです。何をすれば神に喜んでもらえるかをいつも考え、それを私たちのあらゆる行為の動機とすることです。
 二番目に、神のさばきの日に神の前に私たちが立たされることを忘れないことです。「このように、これらのすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。(Ⅱペテロ3の11)」。
ソドムとゴモラが神によって滅ぼされた時、ロトの妻は逃げ出していたのに、後ろを振り返り塩の柱になってしまいました(創世記19章)。身体はソドムから離れていたのに、心をソドムの中に置いてきてしまったからです。この世との愛着を捨て切ることができませんでした。そしてイエス様は「ロトの妻のことを思い出しなさい」と私たちに警告しています(ルカ17の32)。ロトの妻の姿の中に、私たちが絶対忘れてはいけない重大な警告が発せられているからです。
この世とのつながりを断ち切れない人は、何かあった時に必ず後ろを振り返ります。主がお帰りになった時、私たちは心からイエス様を歓迎することができるでしょうか。後ろを振り返ってしまうことはないでしょうか。
主イエス・キリストがお帰りになる日は近いです。迫っています。いつその日が来てもいいように、私たちは日々、きよめられることを求めていきましょう。

【祈り】
自らを聖別し、主のお帰りの日に、心から主を歓迎する者となりますように。