完全なただ一度の贖い レビ記16章1~10節

2020年8月23日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【1】 贖いの日
 レビ記16章には、「贖いの日」「大贖罪の日」と呼ばれる日の礼拝の様子について記されています。イスラエルでは年に一度、第七の月の十日(29)に、「贖いの日」が定められました。この日には大祭司であるアロンだけが幕屋の中の一番奥にある至聖所に入り、民のために、定められた贖いの儀式を行います。
 至聖所とは神ご自身の臨在の場所であり、その中に入るつとめは死と隣り合わせの命がけの奉仕でした(2、13)。定められた通りの装束に身をまとい、からだには水を浴びて、いけにえの家畜を用意して、会見の天幕にやって来ます。至聖所に入る際には香をたくさんたき、香から出る雲が、至聖所内にある「宥めの蓋」を覆うようにします。そしてまず、自分と自分の家族の罪のきよめのためにささげものをし、次に、イスラエルの民の罪のきよめのために、ささげものをします。その間、絶えず緊張が強いられる奉仕でした。この奉仕が年に一度、アロンに課せられたのです。
何のためにこの日が定められたのでしょうか。それは「彼らのすべての罪を除く宥め」(34)のためです。一年を通じ毎週毎週、礼拝がささげられていました。その度にいけにえの家畜が神様に向かって献げられました。その度に、イスラエルの民は罪の赦しを経験し、神の交わりに加えられるという恵みにあずかりました。しかし、それだけで十分ではなかったということがわかります。人間は日々、罪を犯します。自分では自覚できていない罪もあります。それらのすべての罪を取り除くために、年に一度、この「贖いの日」が必要だったのです。
これらの記述は人間を支配する罪のしぶとさ、根深さ、深刻さをよく表しています。今の時代に生かされる私たちも同じ問題を抱えています。私たちは、意識していない部分に何と多くの罪を抱えていることでしょうか。そして自分の努力で自分の心の洗濯をすることは不可能です。いけにえの家畜を何度繰り返し献げても取り切れない人間の罪の根深さを、旧約聖書は私たちに示しているのです。
ただし、新約の時代に生かされる私たちには救い主イエス・キリストが与えられています。レビ記16章に記される大祭司アロンの姿は、実はイエス・キリストの姿を表しています。そして、このレビ記16章の記事を土台として、新約聖書へブル人への手紙9章の記事が記されました。

「キリストは…雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。…キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」(へブル人への手紙9章11~14節)

 大祭司であられるキリストによって、毎年繰り返される必要のない、完全なただ一度の贖いがなされました。キリストが流された血は、私たちの良心をきよめ、死んだ行いから私たちを離れさせ、生ける神に仕える者として下さるのです。
 
【2】 アザゼルのため
 さて、この贖罪の日には、普段の礼拝では見られない不思議な儀式がとり行われました。それは雄やぎを二匹用意し、アロンがくじを引き、くじの結果に基づき一匹を罪のきよめのささげ物として神様に献げ、もう一匹を「荒野のアザゼルのもとへ追いやる」、という儀式です(8~10)。つまり一匹の雄やぎは屠られるのですが、もう一匹は生かされて、荒野に放たれました。
 「アザゼル」ということばは「放つ」という意味の「アザール」ということばから来ているために、神が私たちの罪を取り除いて遠くに離された事実を象徴的に表している、と考えられます。また「アザゼル」とは、土地を支配している悪霊の名前であると解釈し、罪が取り除かれて自由にされた勝利を悪霊に対して宣言する儀式であると考える人たちもいます。
 いずれにせよ、二匹の雄やぎはセットで「贖い」ということばの意味を表しています。つまり「贖い」とは、私たちの罪が完全に取り除かれること、その結果、私たちは完全に解放され自由にされたことを、二匹の雄やぎは目に見えるかたちで表しているのです。

【3】 まとめ
 大祭司なるイエス・キリストが私たちのために一度献げられたことによって、私たちには何が与えられたのでしょうか。私たちの罪が取り除かれました。すべての罪が赦されて、そして残された罪も清められていきます。それだけではありません。その結果として、私たちは完全に解放され自由な者となりました。罪からの自由、罪の結果としての死からの自由、そして神のために生きるための自由。この恵みを与えるためにキリストは私たちのために十字架にかかり死んで下さったのです! どうか罪に捕らわれることなく、与えられた恵みによって生かされる自由を味わっていきましょう。

【祈り】
罪に支配されることがありませんように。自由な者として歩めますように。