もう一度、言わせてください      創世記18章16~33節

2021年8月22日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 神の友アブラハム
 18章17節のみことばはとても興味深いことばです。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と、神様が自問自答しておられるからです。本来隠しておくべきみこころを、神様がアブラハムに知らせたくなられたのは、アブラハムが神様を心から歓迎し、さらに見送りにまでついてきたからです。ご自分に対して心を寄せ、信頼してくれているアブラハムを見て、神様がアブラハムに心を開こうとしておられます。両者が深い信頼関係で結ばれていることを感じさせられます。
 その結果、神様がアブラハムを選び出された目的が、ここでもう一度示されました。それはアブラハムを通して地上のすべての国民が祝福されるためであり、そのためにアブラハムの子孫を形成するためでした(18~19)。
 教会の存在の目的とは何でしょうか。それはこの地上に神様の祝福をもたらすことです。そのための教会形成であることを私たちは覚えたいと思います。

【2】 アブラハムの必死のとりなし
 その上で神様はアブラハムにさらなるご計画をお示しになりました。それはソドムとゴモラを滅ぼすというご計画です。
 主と二人の御使いはソドムの方へ進んでいきましたが、アブラハムは「まだ主の前に立っていた(22)」と記されています。ソドムが滅亡の知らせを、受け止めきれなかったからです。ここからアブラハムの必死のとりなしが始まります。ソドムの中に50人の正しい者がいるかもしれない。その50人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのか、と神様に向かって問いかけたのです。
 そんなアブラハムの問いかけは50人から45人、45人から40人、40人から30人、30人から20人、20人から10人と全部で6回も繰り返されました。「あえて、申し上げます」「どうか、お怒りにならないでください」と遠慮深げに、しかしはっきりと大胆に主にお願いしました。最後には「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください」と、粘り強くお願いしました。
 アブラハムは何を根拠に、このようなお願いを繰り返したのでしょうか。自らの誠実さや正しさではありません。神の公正さとあわれみです。アブラハムは主に向かって「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか」と問いかけました。神様は公正な方であると信じるがゆえに、その神様が正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くすことなど決してあり得ないと、アブラハムは信じているのです。
 またアブラハムは神様のあわれみにすがりました。「50人の正しい者に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。」 明らかにアブラハムはソドムの町の救いのために祈っています。ソドムは確かに悪と不正に満ちた町だけど、神様のその豊かなあわれみのゆえにソドムの罪を赦してほしいとアブラハムは祈っているのです。アブラハムの祈りは、神ご自身をよく知っている者の祈りであることがわかります。
 それにしても何というアブラハムのソドムに対する愛情でしょうか。その町の中に住んでいた甥のロトとその家族のことがアブラハムには当然気がかりだったわけですが、しかし、それだけでなくアブラハムはソドムの町のために必死に祈り続けているのです。
 そしてそんなアブラハムの祈りを全部、そのまま受け止めて下さった神様の忍耐にも私たちは驚かされます。神様は私たちの切なる祈りを聞き遂げてくださるのです。

【3】 ロトとその家族の救い
 アブラハムの必死のとりなしの祈りにも関わらず、ソドムとゴモラは天からの硫黄と火によって滅ぼされてしまいました(19の24~25)。結局、その町には正しい人が10人もいなかったということになります。しかし、ロトとその家族は奇跡的に助け出されました。ソドムに対する未練のためにロトの妻は塩の柱になってしまいましたが、ロトとその娘たちは滅びから免れて救い出されました。アブラハムの熱心なとりなしの祈りがあったからです。
 出エジプト記の中でモーセは、金の神を造って偶像礼拝をしてしまったイスラエルの罪を、どうか赦してくださいと、神に向かって必死に祈りました。「もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください」とまで言って、祈りました(出エジプト32の32)。
 またパウロも滅びゆくユダヤの民の救いを願い、「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と語っています(ローマ9の3)。どちらも自分が犠牲になっていいから、愛する者を救って下さいとの、切なる祈りであることがわかります。
 いつの時代の教会にも変わらずに与えられているつとめとは何でしょうか。それはとりなしのつとめです。主は滅びゆくたましいのために真剣にとりなす者の存在を求めておられるのではないでしょうか。そんな私たちの切なる祈りを主は待っておられるのではないでしょうか。愛する家族の救いのため、友人や同胞たちの救いのために、切に祈り続ける者となりましょう。