素通りなさらないでください       創世記18章1~15節

2021年8月15日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 日常の生活からひと時切り離されて、教会に集まり、愛する兄弟姉妹とともに礼拝をおささげできる時は、私たちにとってかけがえのない時だと思います。その一方で、私たちの日常の歩みの中に、主はおられるでしょうか。特に私たちの家庭の中で、主ご自身との親しい交わりは経験されているでしょうか。祈りとは、私たちの日常の歩みの中での主との交わりであることを覚えたいと思います。

【1】 主の訪問とアブラハムの歓迎
 その日、三人の人がアブラハムを訪ねてきました。人のかたちをとられた神ご自身と二人の御使いだったと考えられます。アブラハムは天幕の入り口に座っていましたが、神様が自分を訪ねて来られたことに気づきます。急いで走って行き、地にひれ伏し、言いました。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。(3)」 
 そして三人の客を精一杯もてなしました。三セアの上等の小麦粉をこねてつくるパンと柔らかくておいしそうな子牛を急いで料理させ、アブラハム自身も給仕して、主にお仕えしました。神様に対するアブラハムの心からのおもてなしだったことがわかります。
 アブラハムは神様を歓迎することになぜ、積極的だったのでしょうか。それは、それまでの祈りの経験を通して、神様の素晴らしさ、そして神様とお交わりできる喜びを味わっていたからです。神様との真実な友情を楽しんでいたからです。
 もしアブラハムの強い促しがなかったら、神様と二人の御使いはアブラハムのところを素通りしてしまわれたのでしょうか。もちろん、アブラハムの家を訪ねるために主は来られました。しかし、主はアブラハムの家の中に、自ら土足で上がり込むようなことはなさいませんでした。あくまでもアブラハムの心からの歓迎に応えるかたちで、アブラハムの家のお客となられたのです。
 「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3の20)」 私たちの心の扉を開けるのはあくまでも私たちです。その時に主は私たちの中に入って来て下さるのです。

【2】 サラに対する配慮
 さて三人の客はアブラハムに言いました。「あなたの妻サラはどこにいますか。(9)」 実は、主は今回サラに会うため、そしてサラに大切なメッセージを伝えるために来られました。それは「来年の今ごろ…サラには男の子が生まれています。(10)」というメッセージです。サラは天幕の入り口にいましたが、神様はそこにサラが隠れていることを覚えつつ、そのメッセージをサラに伝えました。
 サラはそのメッセージを聞いて思わず心の中で笑ってしまいました。年老いた自分たち夫婦に子どもが与えられるなど、とても信じられない話だったからです。よってこの笑いはサラにとってあきらめの笑い、自嘲的な笑い、そして不信仰な笑いでした。サラ自身の弱さや限界のゆえに、神様の偉大さが見えなくなってしまっていたことがわかります。
 ところが主はアブラハムに言われました。「なぜサラは笑っているのか。主にとって不可能なことがあるだろうか。(13~14)」 サラはとっさに「私は笑っていません」と打ち消しましたが、主は「いや、確かにあなたは笑った」と、その事実を指摘されました。
 サラの不信仰を主が叱責しておられるように見えるかもしれません。しかし、神様はサラが恐ろしさのあまりに、そのような言い方をしてしまった事実をよくご存知でした(15)。不信仰にならざるを得ないくらい、サラは今まで、現実の問題に苦しんできたことも主はよく知っておられたのです。
 聖なる神様の前で、嘘や不信仰は明らかにされなければなりません。神様は、サラの隠された罪を曖昧にされるような方ではありません。しかし、それでも神様はサラのことを愛し、受け入れておられました。不信仰のサラの弱さを受けとめた上で、サラに素晴らしい祝福を届け、神様の偉大さをサラに示そうとされました。そのために主はアブラハムの家の客となられたのです。
 
【3】 家庭の中に祝福を
 アブラハムの積極的な促しによって神様の祝福が、アブラハム個人だけにではなく、サラにももたらされました。アブラハムの信仰による応答によって、結果的には家庭の中に主が来られ、家庭全体に祝福がもたらされたのです。
 私たちの家庭の中に、主はご臨在くださっているでしょうか。実は家庭の中は福音の光が一番届きにくい領域です。私たちの甘えやわがままなどの肉の性質が、家庭の中でまかり通っていることが多いからです。その結果、主が私たちの家庭の中に入ることができません。私たちは主の訪問を、無意識のうちに拒んでいることが多いのです。
 それは私たちが、自らの生身の姿を主に知られてしまうことを恐れているからかもしれません。神様は私たちのすべてをご存知です。私たちの弱さも隠された罪もよく知っておられます。その上で私たちを愛し、私たちを受け入れてくださいます。私たちの罪を赦し、私たちの弱さを受けとめ、そして私たちを素晴らしい祝福で満たして下さるのです。
私たちはその方に向かって、恐れずに心の扉を開こうではありませんか。