命じられた通りに レビ記8章1~13節

2020年7月5日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【序】礼拝に参加することと、礼拝者になること
 コロナの影響で礼拝休止に追い込まれ、インターネットを介したオンライン礼拝に切り替えた教会がたくさんあるようです。聖園教会でもオンライン礼拝を始めようかと私も考えましたが、祈って今回は始めないことにしました。礼拝について学ぶよい機会が与えられていると思ったからです。
 礼拝に参加することと、礼拝者になることは区別して考えなければなりません。日曜日に教会に来たりインターネットを介したりして、礼拝に参加することはできるかもしれません。しかし神様が一番求めていることは礼拝に参加すること以上に、私たちが礼拝者になることです。そしてそれは私たちの日常の歩みや家庭の中から始まります。今回、教会に集まってともに礼拝できなくなったことを機に、それぞれの家庭礼拝を励ましたのには、そのような私の願いがありました。
 それぞれの家庭で主を仰ぎ、礼拝者として整えられたでしょうか。その上で共に集められた時、その礼拝はますます神を中心とした祝されたものとなるだろうと思います。 

【1】 アロンの任職
 今日のレビ記8章の記事はアロンとその子どもたちが祭司として任職される場面。「礼拝者になる」ということについて、多くを教えられる記事です。
祭司とは礼拝を司る務めを与えられた人たちのことです。モーセは神様より全会衆を集めるように命じられ、彼らの前でアロンの祭司としての任職を行いました。イスラエルの民全員がこの任職を見る必要がありました。全イスラエルが礼拝の民となるためです。このことが主の招集と命令によってなされました。モーセは神の命令を民にそのまま伝えただけです(5)。神ご自身がイスラエルの民の礼拝を望み、導いておられることがわかります。
 しかも、そこで強調されたことは「主が命じられた通りにする」ことでした。レビ記8~10章で、アロンとその子どもたちの任職の儀式が続いていきますが、「主がモーセに命じられたとおり」にすることが、繰り返し命じられています。
 このことから礼拝の中心は神ご自身であることがわかります。礼拝で大事なことは、私たちが満足すること以上に、神が私たちの礼拝を喜んで下さることです。そのために神より、礼拝の方法が示されました。礼拝を導いておられるのは神ご自身であることを私たちは覚えたいと思います。

【2】 任職の中身~礼拝者となるために必要なこと
 アロンの任職は主に4つのことから成り立っていました。一つ目は水による洗い(6)、これはきよめを表しています。礼拝を始める前に私たちが知っておかなければならないこと、それは罪人である私たちは、そのままでは神に近づくことができないということです。清められなければなりません。
 二番目に祭司の衣服の着衣(7~9)。長福、帯、帽子、上服、エポデ、聖なる記章…などを身につけること。これらはすべて神の「栄光と美を表す聖なる装束(出エジプト28の2)」でした。
 三番目に油注ぎ(10~13)。これは神のために聖別されることを表しています。そして最後にいけにえをささげること(14~36)。祭司は水できよめられるだけでなく、罪を徹底的に取り除かれる必要がありました。それがなければ神との交わりは成立しないからです。

【3】 祭司としての教会
新約聖書にて教会は「霊の家、聖なる祭司(Ⅰペテロ2の5)」と教えられています。主は礼拝者としての私たちを求めておられるのです。そのために私たちは整えられなければなりません。私たちも清められ、礼拝者としての相応しい態度を身に着け、聖霊に満たされ、そして罪を悔い改めて主の御前に出る必要があります。神の前に出るために最高の状態が求められているのです。
実際には罪に汚れた私たちです。どんなに努力しても聖なる神の前には立ち得ません。しかし、そんな私たちのためにキリストが来て下さり、神に通じる道を開いて下さいました。アロンの姿は、実は大祭司となられたキリストを表しています(へブル書5章)。キリストはアロンのように油注がれ、自らの肉体を身代わりのいけにえとしてささげて下さいました。大祭司として十字架という至聖所に入られ、自らの尊い犠牲によって、隔ての幕を破って下さいました。私たちと神がお交わりできる道を、自らのいのちを捨てて、開いて下さったのです。

【4】 結び
 私たちは礼拝者とされているでしょうか。礼拝の度に目に見えない神と出会い、神の素晴らしさを覚え、神を心から賛美しているでしょうか。そのような真実な礼拝に私たちは招かれています。神様も私たちとのお交わりを願っています。その神の前に私たちは自らを整えて、心から礼拝をお献げしていきたいと思います。真実な礼拝者としていただこうではありませんか。

【祈り】
私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として、献げることができますように。