しかし主は、その聖なる宮におられる    ハバクク書2章9~20節

2021年7月4日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 ハバクク書2章20節は、聖園教会の礼拝堂に掲げてられているみことばです。このみことばに一年間、私は教会に来る度に励まされてきました。同時にこれは、今の時代に主が語っておられることばだと思いました。

【1】 預言者ハバククの生かされた時代
 預言者ハバククの生かされた時代とは、どんな時代だったでしょうか。三つのことが指摘できます。第一に、激動の時代でした。当時は南ユダ王国の末期に当たります。アッシリヤ帝国は急速に衰え、代わりに新興国バビロンが力を伸ばしていました。イスラエルはもうすぐ、このバビロンに滅ぼされてしまいます。滅びへの坂道を急速に転がり落ちていたのです。
 第二に、道徳的・霊的に堕落した時代でした。この危機的な状況を人々が危機感をもって受け止め悔い改めることができればよかったのですが、そういうことは全くありませんでした。不正がはびこり、暴虐に満ち、律法が軽んじられ、偶像礼拝に人々が耽る状況だったのです。
 第三に、答えの見えない時代でした。ハバククは神様に向かって「なぜ…苦悩を眺めておられるのですか」と訴えました(1の3)。不正に満ちた世の中を、義なる神様が見過ごしておられることにハバククは我慢できません。さらに罪を犯したイスラエルをさばくために、もっと罪深いバビロンのカルデヤ人たちを神様が用いられることに、ハバククは納得できなかったのです。ハバククは「なぜ」「どうして」と神様に問い続けました。答えの見えない時代だったのです。
 今の私たちの生かされている時代も、ハバククの時代のようではないでしょうか。ハバククの姿や気持ちが、とても身近に感じられる状況ではないでしょうか。このような時代の中で、私たちも真っ直ぐに神様に問いかけたいと思います。

【2】 バビロンに下される神のさばき
 そんなハバククの祈りに対して神様は「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない(2の3)」と語られました。神様は邪悪なカルデヤ人をも必ずさばかれます。その時は必ず来ます。その時を待つようにとハバククに命じられました。その上で、バビロンに下されるさばきの警告がなされます。
 略奪を繰り返すバビロンは、いずれ他の民によって略奪されます(2の5~8)。不正を繰り返すバビロンの不正は、ちゃんと見られています(9~11)。搾取によって築かれたバビロンの都は火で焼かれます(12~14)。道徳的に退廃したバビロンに、暴虐が襲います(15~17)。そして、偶像礼拝に耽るバビロンの愚かさが明らかにされます(18~19)。このように、邪悪なバビロンに神のさばきが下される時が必ずやってくると、預言されました。
 ただ、そうであったとしても、それが起こるのはずっと先のことです。それまでの間、イスラエルの民はこのカルデヤ人たちの支配の中で苦しまなければなりません。その苦しみはイスラエルの犯した罪のゆえであったとしても、さらに罪深いカルデヤ人たちに搾取される理不尽はこれからも続くのです。そんな理不尽をなぜ神は放置するのか、答えは見えないのです。

【3】 信頼と宣告
 しかし、その中にあってイスラエルの民が覚えなければならないことがありました。それは主が聖なる宮におられること。天の宮に君臨され、この世のすべてを支配しておられることです。冒頭の「しかし」という逆接の接続詞は、その前に記される物言わぬ偶像との対比を明らかにしています。天の宮におられる主は、動くことも、教えることも、息をすることもできない偶像ではありません。そうではなくて生きていて、君臨し、支配し、力強く行動する神です。
 イスラエルに求められたのは、その方に対する理解や納得ではなく、信頼でした。私たちは神様の偉大さやご計画のほとんどを知りません。知ることもできません。しかしわからなくても求められているのは、この方を覚え、この方に信頼することです。「正しい人はその信仰によって生きる(2の4)」からです。
 さらに、イスラエルの民には特別なつとめが与えられていました。それは全地に向かって呼びかける、というつとめです。その呼びかけの内容は「主の御前に静まれ!」。騒がしいこの世に向かって、静まることの大切さを訴え、しかも主の前で静まること、主の前に置かれている厳粛な事実を指摘し、主を指し示すことが求められたのです。

【4】結び
 今日の教会は果たして、天の聖なる宮におられる主を指し示す場所になっているでしょうか。さらに今日の教会は全地に向かって「主の御前で静まれ」と叫び、主の前で静まることの大切さと、天におられる主を指し示しているでしょうか。
 不安な中で心を騒がせてしまいやすい私たちも、まず静まる必要があります。主の御前で静まり、聖なる宮におられる主を覚えなければなりません。この方に対する信頼が求められています。
 そしてその恵みを味わった上で、全地に向かって声を上げるのです。人々にこの事実を伝えるのです。この時代の人々はどこで主の御声を聞くのでしょうか。どこに光を見出すのでしょうか。主の御前で生かされ、この方を指し示していきましょう。