心からの礼拝 レビ記10章16~20節

2020年7月26日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)


【1】 ナダブとアビフの死、その後の展開
 イスラエルの祭司として任職されたばかりのアロンの二人の息子、ナダブとアビフが、主の怒りに触れていのち絶たれるという、悲しい事件が起こってしまいました。その理由として聖書には「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前にささげた」事実が指摘されています(1)。信仰的に見える振舞いの中に、不従順が隠されていました。その事実を受けて、父アロンは「黙っていた」とあります(3)。息子二人を突然失うという大きな悲しみと痛みの中にあっても、神に口答えすることはできませんでした。アロンにとって、聖なる神のご性質に触れた経験でした。
 そんな大きな失敗をしてしまったアロンとアロンの家族を、神様は尚も祭司として用いようとされました。祭司としての務めと心構えを新たに教えておられます(8~11)。そこに神様のあわれみを感じさせられます。さらにモーセも、アロンとアロンのもう二人の息子エルアザルとイタマルに、祭司の職務に関しての指示を与えています(12~15)。この内容はすでに与えられた命令の繰り返しでした。モーセにしてみれば「念には念を」という感じだったのでしょう。同じ過ちを繰り返さないためのモーセなりの配慮だったのだと思います。

【2】 同じ過ちの繰り返し?
 その後事件が起きてしまいました。モーセは罪のきよめのささげ物である雄やぎを懸命に探したのですが、なかなか見つかりません。なんと、それはエルアザルとイタマルによってすでに焼かれた後でした。そのいけにえは会衆の咎を負い、彼らのために宥めを行うためのものであり、特に聖所の中に携え入れられ、そこで祭司たちが食するのが決められたルールでした。ところがアロンの息子たちは、その規定に従わずに、自分たちで焼いてしまったのです。
 なぜまた命じられた通りにせず、同じ過ちを繰り返すのか。モーセの戸惑いと怒りは相当なものだったと思います。アロンに問い詰めました。「あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べるべきだったのだ。」
 しかしアロンはモーセに次のように答えました。

「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」(19)

【3】 アロンの願い
 「私の身に降りかかった」ということばに、息子たちを突然失った父親としての深い悲しみが表されています。同時にアロンのことばからは、罪に汚れたまま形だけふさわし礼拝をささげて、それでみこころにかなうのだろうか、という疑問も発せられています。神の聖さに触れて自分の罪深さを思い知りながら、その中で何とか主に喜んでもらいたいと願うアロンの葛藤を感じさせられます。ここに、形だけの礼拝行為で自分の罪を曖昧にしたくない、とのアロンの信仰が表されています。
 中途半端な信仰を覆い隠すために、信仰的振る舞いによって自らの不信仰をカモフラージュしてしまう誘惑に私たちはさらされているのではないでしょうか。月曜日から土曜日まで主と共に歩めていない信徒は、その不信仰の穴埋めをするために、日曜日の礼拝出席に一生懸命になってしまうことがあります。形としては信仰的であったとしても、自らの不信仰の体裁を整えるためだけの行いだとしたら、そこにはもはやいのちがありません。神様が私たちに求めているのは形だけの信仰生活ではなく「砕かれた霊、打たれ砕かれた心(詩篇51の17)」であることを、私たちは忘れるべきではありません。ロトの息子たちの行為は確かに規定通りではなかったかもしれません。しかし、心の奥深くでアロンは神を求めていました。そのアロンの信仰をモーセは受け止め、神もみこころとして下さったのです(20)。

【4】 悔い改めにつながる悲しみ

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7の10)

 この世には二つの悲しみがあります。一つは「世の悲しみ」。この悲しみは死をもたらします。しかし、もう一つ「神のみこころに添った悲しみ」があります。それは私たちの罪を悲しむ悲しみです。自分の罪を知らされたら誰でも悲しいです。しかし、その悲しみは後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる悲しみです。私たちを悔い改めに導き、いのちにつながっている悲しみなのです。罪人としての自分をそのまま主にゆだね、主にある慰めを味わっていきましょう。

【祈り】
「砕かれた霊、打たれ砕かれた心」をもって主に仕えていくことができるように。