この地を縦と横に歩き回りなさい       創世記13章14~18節

2021年7月18日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 身内との争い
 みことばを受けて信仰をもち出発したアブラハム。そして旅の途中にはいつも祈りがありました。私たちにとっては、お手本となる信仰者の姿です。しかし信仰と祈りがあれば、万事はうまくいくのでしょうか。そうではありません。信仰者である私たちも、難しい現実の問題に振り回されたり、人間関係で悩むことがあります。アブラハムもそうでした。
 この日アブラハムには、甥のロトとの対立が起きてしまいました。「所有するものが多すぎて、一緒に住めなかった(6)」ゆえの対立でした。そのためにアブラハムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間で争いが起こってしまったのです。祝福された者同士の争い、さらに同じ信仰をともにする身内の中で発生してしまったトラブルでした。
 私たちの人間の罪人としての性質は一人でいる時よりも、複数の人間の集まりの中でよりはっきりと現わされます。そのような対立や争いが家庭、職場、社会、世界、そして教会の中でも起こります。それは私たちが罪人であることの証明です。そしてこの罪の問題の解決を人間の力で成し遂げることは不可能です。罪の問題はそれくらい深刻だからです。

【2】 アブラハムの対処
 起こってきた問題にアブラハムは懸命に対処します。まずアブラハムはロトのところに行って「争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから」と提案しました。さらに土地を両者で分け合うために選択をロトに委ねました。
 アブラハムの信仰に基づいた判断でした。「約束された地に他国人のように住んだ(へブル11の9)」アブラハムは、目に見えるものに縛られることがなく、目に見えない神様が最善に導いて下さると信じることができたのです。
 一方、ロトは目に見えるものに対するこだわりから離れることはできませんでした。アブラハムに先立ってよく潤っていた東の地を選び、その結果、ロトとその家族はその後大変な悲劇に遭遇し、神様の祝福を失っていきます。ここに目に見えない神様に信頼する生き方と、目に見えるこの世にすがって生きる生き方の明暗がはっきりと現わされています。

【3】 主の応え
 アブラハムは何とかことを治めることができ幸いだったと思いますが、アブラハムの心中は複雑だったことでしょう。ともに旅を続けてきたロトと複雑な関係になってしまったことに対する悲しみは、特に大きかったことでしょう。
 そんなアブラハムに対して神様は応えてくださいました。まず目が下がって現実のことに釘付けになっているアブラハムに向かって、「目を上げなさい」とおっしゃられました。時にかなった神様の素晴らしい助けでした。
 その上で「あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい」と命じられました。そして「この地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与える」と約束して下さいました。人間の思惑を超えたところに神様の素晴らしいご計画があることを、神様はアブラハムに示されたのです。さらに、人間の肉眼をもってこの世を見るのではなく、神様の視点で、信仰をもってこの世を見ることの大切さを神様は教えてくださいました。
 また神様はアブラハムに続けて「立って、この地を縦と横に歩き回りなさい」と命じられました。これはただ見るだけでなく、実際に立って、歩き回って、神様の約束の確かさを味わいなさい、との命令です。実際にその地を歩かせることによって、その約束が確かであることを示して下さいました。
 私たちにも目を上げて信仰をもって見ること、さらに見たら立って、信仰を働かせること、主のみことばを信じて実践することが求められています。そのようにして私たちも主の約束の素晴らしさを味わうことができるのです。

【4】 結び
 その後アブラハムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの木のそばに来て住み、そこに祭壇を築きました。いつもの通りに祭壇を築き、そこで祈りました。自分の弱さや限界を補って余りある神様の深い配慮に対するアブラハムの心からの感謝が、そこでささげられたのです。
 アブラハムにとって祈りとは「旅に伴って下さる神様との親しい交わり」でしたが、同時にそこには成長があったことがわかります。祈る度に神様の素晴らしさを知らされ、神様のアブラハムに対する信頼はいよいよ深められていったのです。
 私たちも日々の歩みの中で起こってくる問題や、人間関係のトラブルに悩まされます。しかし私たちの神様は敢えてそのような経験を通して私たちの弱さと罪深さを示し、私たちを砕いたり、清めたり、励ましたりしながら私たちを導いて下さいます。そして、私たちにますますご自身の素晴らしさを示し、私たちをさらに神様に信頼する者へと造りかえてくださるのです。
 この方との日々のお交わり、祈りの時をかえがえのないひと時として、私たちは大切にしていこうではありませんか。