恐るべき罪 レビ記10章1~7節

2020年7月12日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【序】コロナ以後の時代
 コロナ問題の収束を願いながら、収束後にどんな時代がやって来るのかを考えさせられています。今、世界や日本、私たちの身近なところで起こっていることなどを見渡しながら、人間のエゴがはっきりと表される時代になっていくのではないか、と思わされます。それぞれの主義主張を認め合いながら表面的な平和を保つ人間の努力は、限界に近づきつつあるのではないでしょうか。絶対者なる神がおられることを私たちは覚えなければなりません。

【1】 アロンの子たちの死
 アロンとアロンの子どもたちが祭司として任職される任職式が無事に終わり、最初の職務執行時に悲劇が起こってしまいました。アロンの子どもたち、祭司として任職されたばかりのナダブとアビフが、主の前から出た火によって焼き尽くされ、死んでしまったのです(2)。
 なぜこんな悲しいことが起こってしまったのか、具体的なことについて聖書は何も語っていません。ただ「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた(1)」とだけ記されています。道徳的に何か間違ったことをしてしまったわけではありません。ナダブとアビフはおそらく善意から、神様に献げ物をしたと思われます。ただ命じられた通りにしなかっただけです。しかし、そこに神に対する不従順が隠されていました。
神様は彼らの具体的な行為ではなく、姿勢や態度に注目しておられることがわかります。行為としての罪ではなく、心の中にある動機、神に対して従順であるかどうかに注目しておられることに気づかされます。
礼拝にとって大切なのは私たちの宗教的熱心さを満たすことではありません。全焼のささげ物よりも、主の御声に聞き従うことを主は求めておられることを、私たちは忘れるべきではありません(Ⅰサムエル記15の22)。

【2】 神の聖さの現れ
 その後、モーセはアロンに神のことばを伝えました。

「わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けて、わたしは自分の栄光を現わす。」
 
 ナダブとアビフの事件を通して、結果的に神のきよさが現わされたことがわかります。モーセが伝えるその神のことばを聞いたアロンは「黙っていた」と記されています(3)。今、自分の目の前で二人の息子が死んでしまいました。その事実を父親として、とても受け入れられなかったのではないでしょうか。なぜ、こんな悲しい結果になってしまうのか。神様に対する疑問や不満もアロンの中では渦巻いていたのではないでしょうか。もしかすると自分の子育てに関する後悔の念も抱いたかもしれません。しかし、それでも神に口答えすることはできませんでした。アロン自身が神のきよさに触れた瞬間だったからです。
 神は聖徒である私たちを通して神のきよさを現わされます。私たちはこの聖なる神のご性質に触れたことがあるでしょうか。そして、私たちを通して神のきよさが現わされているでしょうか。

【3】 神の愛
私たちは同時に、神のきよさに近づくことのできない私たちのために、近づく方法を示される神の愛も覚えたいと思います。神が私たちを礼拝に招き、そのための方法をも示して下さっているのです。
この世は、人間が根本的に罪人であるという事実を認めようとしません。現代人は罪に対する感覚をドンドン鈍らせ、教会の中にもその感覚が持ち込まれることがあります。
どうしてでしょうか。聖なる神の臨在を知らず、神の聖さに触れる経験がないからです。神と出会うとは、どのような経験なのでしょうか。それは自分の中に隠されている罪がはっきりと示されるという経験です。しかし、それがいのちの始まりです。
罪人である私たちのために神の方から来て下さいました。イエス・キリストは罪人を救うために来られました。私たちの罪を処分し、私たちにいのちを与えるために、ご自身のいのちを差し出されたのです。礼拝はまず神の招きから始まります。神が私たちとの交わりを願っています。そして神と交わる方法も、主が示して下さるのです。
 教会は「聖なる宮」と呼ばれ、信徒は「聖徒」と呼ばれます。私たちは教会としても個人としてもきよさを求めていかなければなりません。きよさの内に神はご自身を現わされるからです。教会では「愛の交わり」が求められることが多いのですが、第一に求めるべきものはきよさです。愛は、私たちがきよめられた結果与えられる神様からのプレゼントだからです。

【祈り】
私たちが教会としても個人としてもきよめられ、神の栄光を現わすことができますように。