神の愛、確かな愛 ローマ人への手紙8章38~39節

2020年6月28日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【1】 圧倒的な勝利者?
 前回の説教では、キリストの愛のゆえに私たちは圧倒的な勝利者であることを学びました。その後考えてみました。私たちは本当に「圧倒的な勝利者」だろうか? 実際には勝利どころか敗北を繰り返しているのではないだろうか。敗北しているという意識があればまだいいと思います。実際には戦ってもいない。戦っていないから敗北していることにも気づかない。無意識の敗北者になってしまっているのではないかと思わされました。
 コロナ感染拡大によるウィルスの危機は、私たち人間の罪人としての性質を明らかにしているように見えます。私たちは時々、自分の心の中に何があるのかを試される時があるように思います。普段意識していなかった自分の中にある矛盾や、醜さ、傲慢さに気づかされる時があるように思います。私たちの信仰が自分の正しさを誇り、隠されている人間としての矛盾を覆い隠すためのものになってしまわないよう、私たちは気を付けたいと思います。

【2】 パウロの確信
 38節でパウロは「私はこう確信しています」と力強く語っています。キリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もないこと、それがパウロの確信でした。どうして、このように言い切れるのでしょうか。
 それは、パウロが自分の罪に苦しんでいたからです。ローマ書8章の前の7章を読むと、パウロが自分の罪の問題に苦しんでいたことがよくわかります。

「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることがわかるのです。」(7の23)

パウロはみことばを聞くことを喜んでいます。しかし聞けば聞く程、それに見合わない罪の律法が自分の心の中にあり、自分に戦いを挑み、自分をとりこにしていることに気づかされるのです。それゆえにパウロは「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう」と嘆きの声を挙げるのです。
7章の結論と8章の結論はあまりにも違い過ぎるのではないでしょうか。しかしパウロはこの戦いを戦っていたからこそ、圧倒的勝利を経験できたのです。罪との戦いを経験していたからこそ神の愛を力強く確信できたのです。
みことばは私たちの内側を照らします。私たちが神の前に徹底的に堕落し、その性質と人格において歪んでいることを明らかにします。しかし、そこに勝利があります。「圧倒的な勝利者」という宣言は、そこに生まれてくるのです。

【3】 神の愛
 どんな被造物も私たちを引き離すことができないくらい、神の愛は強いとパウロはここで主張しています。それは一方的な愛です。私たちの側には神の愛から離れたくなってしまう様々な理由があります。神の愛にとても応えることができません。愛される価値がありません。申し訳ありません。そう思ってしまう私たちです。しかし、そんな私たちに有無を言わせないくらい、神の愛は一方的です。
 しかも神の愛は無条件な愛です。見返りを求めません。愛したから、その愛に見合った愛を返してほしいと要求しません。私たちが罪人でも、反抗していても、それでも愛し続けます。
 そしてそのような大きな愛を神はイエス・キリストによって明らかにして下さいました。キリストは私たちのために死に、私たちのためによみがえって下さいました。そして私たちのために今も神の右の座でとりなして下さっています。このイエス・キリストを下さったこと、それが私たちに対する神の愛の証明です。

【4】 結び
 創世記15章において、アブラムは心の中に恐れと不満とを抱いていました。神様は自分に跡取りを用意して下さらないのではないか。約束だけ下さって、あとは何もして下さらないのではないか。そんなアブラムに神様はみことばを語って励まして下さいました。さらにアブラムを外に連れ出し、満点の星空を仰がせて下さいました。その上で約束されました。「あなたの子孫は、このようになる。」
 実に時にかなった助けでした。アブラムはその時に神の慰めと愛を感じました。そして、この方のことばに信頼しました。神の愛がアブラムの心を開き、みことばに信頼できるよう導いたのです。その時のことを聖書は「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と記しています。(創世記15の6)。アブラムの信仰を神も喜び、アブラムを義と認めてくださったことがわかります。
私たちと神様との関係は単なる命令と服従の関係ではありません。ギブ&テイクの関係でもありません。父なる神様との親しい交わりの中に生かされる愛の関係です。神に心を開き、みことばに信頼しましょう。その時に私たちは素晴らし世界に導かれます。私たちを無条件に愛して下さる神の愛に圧倒されるのです。

【祈り】
私たちの罪との戦いの中で、神の愛による圧倒的勝利を経験できますように。