教会の誕生            使徒の働き2章41~47節

2021年6月27日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス・キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨とイエス様の十字架後の展開について、私たちは今まで学んできました。今日はその一連のシリーズの最後になります。最終的には何が生まれたのでしょうか。教会が誕生しました。イエス様の十字架も復活も昇天も聖霊降臨も、すべてここに行きつくことがわかります。教会をこの地に築くということが、神様のご計画の大切な一部だったのです。
 世界で最初に誕生した教会はどのような教会だったでしょうか。力と影響力に満ちた、実に魅力的な教会の姿がここに示されています。その教会にはいのちがあり、一致がありました。この教会の姿が、私たちの目標です。
 なぜ最初の教会にはいのちがあり、一致があったのでしょうか。

【1】 新生した人々によって構成されていた
 最初に、キリストによって新しく生まれ変わった人々によって、教会が構成されていたからです。人々はペテロによって語られる説教に心刺され、悔い改めに導かれ、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けました。その日、3,000人もの人々がバプテスマを受けたのです(41)。
 それらの人々によって教会は誕生しました。つまり、教会は新生した人々によって誕生しました。キリストと出会ってそれまでの古い自分に死に、新しい人に造りかえられた人、180度の方向転換のできた人によって教会は構成されました。それを象徴的に表すのがバプテスマです。その結果、彼らは賜物として聖霊が与えられました。つまり教会を導いているのは聖霊です。彼らはもはや自分のためではなく、イエス・キリストのために生きる人へと変えられたのです。
 今日の教会は果たして、そのような新生した人、180度の方向転換を経験した人によって構成されているでしょうか。私たちの中で悔い改めと信仰がはっきりと経験されているでしょうか。イエス・キリストとの出会いは私たちの生涯全体を変えていくほどの大きな出会いです。そのような出会いが本当に経験されているでしょうか。そのような新生した人々によって教会は築かれていくことを私たちは覚えたいと思います。

【2】 キリストが中心
 キリストと出会って新生された人々は集まって何をしていたのでしょうか。42節には彼らがいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていたことが記されています。この四つのことを彼らは大事にしていました。
 まず彼らは弟子たちを通してキリストの教えを学び、それを守りました。次にキリストを分かち合う交わりを持ちました。「パン裂き」とは聖餐式のことを表しています。パン裂きを通して彼らはキリストの恵みを味わい、キリストによって一つとされました。そして心を併せて祈りました。
 ここにキリストを中心とする群れが形成されていることがわかります。彼らはキリストを中心として一つとなりました。みな一つになって一切の物を共有し、毎日心を一つにして宮に集まり、神様も日々新しい人々を加えて、教会を一つにして下さいました。彼らの一致の中心はキリストだったのです。
 私たちが注目したいのは彼らが、これら四つのことに、いつも専念していたことです。専念しなければならない理由がありました。それは彼らが罪人であることをよく知っていたということです。自分が罪人であることを知っているからこそ、彼らはキリストから離れることができませんでした。自分の罪を自覚しているからこそ、罪を赦し清めてくださるキリストにいつも信頼しました。そんな自分をよく知っているからこそ、彼らは4つのことに専念できたのです。
 洗礼を受けたのに教会から離れていったり、教会の人間関係につまずいたり、いつまでも人を赦せないでいる人が時々おられるようです。そのような人に共通して見られる特徴は、自分が罪人であるという自覚に乏しいということです。自分の罪を本当によく知っていたならば、自分のことを棚に上げて人を責めることはできないはずです。自分の罪が本当に赦された経験をしているならば、必ず人を赦せるはずです。それができないのは私たちが本当の意味で自分の罪深さに気づいていないからです。自分にまだ自信があるからです。
 私たちは本当にキリストに出会っているのでしょうか。そして私たちの教会は本当にキリストを中心とした交わりになっているのでしょうか。教会の中心は自分自身ではなく、どこまでもキリストであることを覚えたいと思います。

【3】 結び
 私たちは本当に専念すべきことに専念できているでしょうか。今日の教会ではカウンセリングや社会活動、福祉活動が大切にされる傾向が強っているのだそうです。それも素晴らしいことかもしれません。しかし一番肝心なこと、つまりみことばを守ること、キリストを共有すること、キリストを通して一つになること、心を併せて祈ることが大事にされているでしょうか。それらに私たちは専念できているでしょうか。
 御霊で生まれたはずの教会が、人間の願望によって支配されてしまうことがないように、私たちには注意が必要です。私たちは教会で、いつもキリストと出会うことができますように、キリストを中心として一つとされますように、そのようなキリストが住まわれる教会形成を私たちは目指していきましょう。