罪の深い自覚            使徒の働き2章37~40節

2021年6月20日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 ペテロの説教を聞いた人々はどのように反応したでしょうか。福音が語られる時、どんな反応が人々に生じるのでしょうか。

【1】 人々は心を刺された
 イエス・キリストについてメッセージを語ってきたペテロが、最後に人々に言いました。「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 このペテロのことばを聞いた人々は心刺されました。救い主イエス様を、十字架につけて殺してしまった自らの罪を、知らされたからです。福音が語られる時、人に最初に起こる反応、それは自らの罪を示されて心刺されるという反応です。
 でも福音を聞いても心刺されない例はたくさんあります。逆に反発を覚えたり、敵対感情を抱く場合もあります。イエス様が福音を語った時のパリサイ人や律法学者たちがそうでした。イエス様のメッセージに罪を示された彼らは、イエス様に対する殺意を抱くようになってしまったのです。
 私たちの多くにとって、罪は心地よいテーマではありません。罪を自覚することに私たちは慣れていないからです。社会の諸問題を見て人間の罪を自覚するよりも、環境のせいにしてしまいやすい私たちです。また罪が私たちの内側にある醜い現実、心の状態、自らを支配する力であると認めることが、私たちには苦手です。それよりも罪を、決まりやルールを破ること、と考えます。それゆえに真面目に生きている人は自分を罪人だとは、考えにくいのです。
 福音が語られて罪を示されるのは、そこで聖霊が働いた結果です。イエス様も「聖霊が来ると罪について…世の誤りを明らかになさいます(ヨハネ16の8)」と教えています。みことばを通して働かれる聖霊が、私たちの罪を明らかにします。みことばの光によって私たちの内側を照らしていただきましょう。
 
【2】 求道が始まった
 ペテロの説教によって心刺された人々は、ペテロとほかの使徒たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と問いかけました。自らの真の姿を知らされた人の姿が、ここに示されています。
 かつてバプテスマのヨハネの説教によって、罪のもたらす深刻な結果を知らされた人々も「私たちはどうすればよいのでしょうか」と次々に問いかけました(ルカ3の9~14)。「私はどうすればよいのか。」 これが自分の罪を知らされた人に見られる反応です。私たちも自らの罪の重さを知らされて、またその結果の深刻さを覚えて、このように反応せざるを得ないのです。
 しかし逆接的ですが、このように自分の罪を知らされた人は幸いです。その人は、これらの人々のように救いを求めることができるからです。真剣に神を求めることができます。そして求めるならば、必ず与えられます(マタイ7の7)。
 イエス様のたとえ話に出てくる罪深い取税人は、自分の胸をたたきながら言いました。「神様、罪人の私をあわれんでください(ルカ18の13)。」 この取税人が義と認められました。自らが正しいと確信していたパリサイ人ではなく、罪深いこの男が、主を求めたことのゆえに神の祝福にあずかったのです。

【3】 悔い改めた
 ペテロの説教によって心刺され、神を求めた人々は最終的にどうしたでしょうか。悔い改めました。ペテロは続けて語りました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(38)。」 このメッセージに導かれた人々は次々と自らの罪を悔い改めました。その結果、彼らの罪は赦されたのです。罪が赦されるためには、悔い改めが必要であることがわかります。
 「悔い改め」と似ているようで全く違うのが「後悔」です。後悔は自らの罪を悲しみ反省するのですが、決して悔い改めません。イエス様を金で売ってしまったイスカリオテのユダも、その後、自らのしてしまった罪の大きさを知らされ後悔し、その結果、自らでいのちを絶ってしまいました。後悔しても悔い改めないならば、私たちはその罪にいつまでも囚われ続けることになります。
 しかし悔い改めの先に待っているのは、「赦される」という大きな喜びと祝福です。ペテロもイエス様を知らないと三度言ってしまう大きな罪をおかしましたが、赦される恵みを味わいました。そして自らを赦して下さった方の愛に応えて、生きる者となりました。
 悔い改めとは単に罪を悲しんだり、反省したりすることではありません。自分のために生きる生き方から、神のために生きる生き方へと方向転換することです。

【4】 結び
 罪を示される経験は私たちにとって、あまり心地よい経験ではないかもしれません。しかし、そんな時私たちは本当の自分、生身の自分に出会っているのです。そしてその部分で主は私たちと出会って下さいます。どんな罪もイエス様は必ず赦してくださいます。そのために私たちの罪を負って十字架にかかって死んで下さいました。そのイエス様があなたのことを今、招いておられるのではないでしょうか。罪を知らされ、悔い改めに導かれ、そして主に赦される恵みを味わっていきましょう。