キリストのみわざ  ローマ人への手紙8章33~34節

2020年6月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生 師)

【1】 私たちの苦悩
 「クリスチャンなのに…」と、つぶやいてしまうことの多い私たちではないでしょうか。「クリスチャンなのに、成長しない」「クリスチャンなのに、人をさばいてしまう」「クリスチャンなのに、人を憎んでしまう」…。私たちは罪赦されているのに、罪の奴隷状態から離れられないのです。 
 パウロがローマ書8章で語ってきた「苦難」とは、実はそのような苦難です。私たちの苦難の多くは、救われているのに、その救いがまだ完成していない、という状態からくる苦難です。その苦難を表すことばとしてパウロは「うめき」ということばを使いました。「叫び」ではなく「うめき」。ことばに出して叫ぶことができれば、まだいい方かもしれません。しかし私たちの苦難の多くは、ことばにならないうめきによってしか表せないものです。もしかすると私たち自身が意識していない負担や重荷や傷が、私たちの心深くに隠されているのかもしれません。
 しかしそれが、私たちがキリスト者であることの証しでもあります。キリスト者になっても罪の自覚が深まらないという人が時々いるように思います。キリスト者であることが、自分のライフスタイルがアクセサリーのようなものとなってしまい、罪の自覚が一向に深まっていかないということがあるように思います。
 キリスト者になるとはどういうことでしょうか。それは聖なる神の臨在の前に立つということです。神のみこころに聞き従うということです。当然そこには自分の罪が示されます。神のみこころに従いきれない自分自身に対する悲しみがあります。その苦難の中にこそ、神の救いがあることを覚えたいと思います。
 そんな自分自身を知らされると私たちは自信を失うかもしれません。そして自分で自分を責めてしまいます。さらにそこから、サタンが執拗に私たちを攻撃してきます。私たちの弱さ、愚かさ、罪深さを大きく見せて、私たちの救いが不十分であること、まだ有罪であること、キリスト者として失格であることを私たちに思い知らせようとするのです。そのような様々な攻撃を私たちはみことばによって、しっかりと立ち切らなければなりません。パウロは教えています。

「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。…だれが、私たちを罪ありとするのですか。(33、34)」

 私たちを告発し、罪の中に釘付けしようとする存在を意識しながら、そのようなことは不可能である、と主張しています。どうしてでしょうか。「神が義と認めてくださる(33)」からです。神が義と認めてくださる! 本当でしょうか。本当です。聖書にて、そう教えられています。その事実のゆえに、誰も私たちを罪に定めることができないのです。

【2】 キリストのみわざ
 どうしてそんなことが言えるのでしょうか。それはキリストのみわざのゆえです。キリストは私たちのために三つのことをして下さいました。第一にキリストは私たちのために死んで下さいました。私たちの罪を全部背負って、身代わりの死を遂げて下さました。私たちのすべての罪を処理して下さったのです。
 第二にキリストは私たちのためによみがえられました。罪の報酬は死です。罪人である私たちは死ななければなりません。その死とは単なる肉体の死ではなく、永遠のさばきです。しかしキリストは死に勝利されました。罪の結果である恐ろしい死からも、私たちを解放して下さったのです。
 第三にキリストは天に昇り、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださいます。父なる神のすぐそばにいて私たちのために今も、とりなしをしておられると言うのです。私たちが罪に捕らわれてしまうことがないように、信仰を失ってしまうことがないように、そして、確実に御国に到着できるように、私たちのために、今もとりなしておられるのです。何と至れり尽くせりの恵みではないでしょうか。
 罪人であり続ける私たちが平安でいられるのは、すべてこのキリストのみわざのおかげです。このキリストのみわざのゆえに、誰も私たちを罪ありとすることができないのです。

【3】 結び
 このみわざが今もなされているのに、どうして私たちは罪の内にとどまり続けるでしょうか。神が私たちの味方です。神が御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださいます。そして神は、キリストのみわざのゆえに今も、これからも私たちを義と認めてくださるのです。
 どうかこの恵みを無駄にすることがありませんように。自分の罪の現実の中にとどまり続け、自分を責めたり人を責めたりすることがありませんように。サタンに機会を与えることがありませんように。みことばによって勝利を得ましょう。

【祈り】
 キリストのみわざのゆえに私たちの罪の問題に日々勝利できますように。