すべてのことが益となる  ローマ人への手紙8章28~30節

2020年5月31日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教(若井和生 師)

 かつて東日本大震災の被災地に出かけて行った時、私は正直に申しますと、自分の力不足を感じました。被災された方々に届く福音を、私は果たしてもっているのだろうか、私の福音理解は被災地の方々に届くだけのものとなっているだろうか、と考えさせられました。神のことばと、現実の世界との間に挟まれながら、神のみことばを十分に伝えきれない自分の力不足、そして福音理解の貧しさを感じさせられました。
 そこで考えさせられたことは、苦しみからの救いではなく、苦しみの中にある救いを私たちはもっともっと大切にしていかなければならない、ということです。「もしイエス・キリストを信じれは、すべての苦しみ悲しみから解放されます」という程度の信仰なら、あの被災の現場では全く通用しないと思います。苦しみもがいている、まさにその時その中にこそ救いがある、というメッセージを、身をもって伝えることはできないでしょうか。聖書の伝える福音とは、まさにそのようなメッセージではないかと思わされます。
 聖書は語っています。「すべてのことがともに働いて益となる。」 なぜ益となるのか。どのように益となるのか。そして、どのような意味で益となるのか。私たちは今日のみことばに耳を傾けていきたいと思います。

【1】 キリスト者である特権

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(28)

 このことばより教えられる一つのこと、それは、すべてのことが益となるのは、キリスト者だけが経験できる恵みであり特権である、ということです。この特権は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのため」に与えられている恵みです。私たちキリスト者は何という大きな恵みと特権に預かっていることでしょうか。
 しかしイエス・キリストの救いに預かっていない人はそうではありません。すべてのことが働いて益となるとは限りません。むしろ、諸々のことが互いに作用して悪い方向に向かってしまうこともあるでしょう。信仰をもっている人とそうでない人の違いは、それ程大きいのです。
 同時に私たちは考えなければなりません。私たちは本当に信仰者でしょうか。キリスト者・クリスチャンでしょうか。ここにキリスト者とは、どう人であるかということが定義されています。
 キリスト者とは第一に「神を愛する人たち」です。これは、私たちの信仰の主観的な面を表しています。私たちキリスト者は神を愛する者です。神に愛される者ではありません。神から愛されたゆえに、その愛に応えて神を愛します。そのような積極的、主体的な信仰者です。
第二にキリスト者は「神のご計画にしたがって召された人たち」です。これは、私たちの信仰の客観的な面を表しています。つまり私たちは、神の目的の中に生かされている者たちです。そのような立場をわきまえた冷静な信仰者です。
この主観と客観の両方が必要です。よって、このことばは、私たちが本当にキリスト者であるかどうかをチェックする助けになります。
神に対する愛はあるのに、神のご計画にしたがって歩んでいないなら、その人は自己中心な信仰者です。神の計画にしたがって歩んではいても、神に対する愛がないなら、その人は中身のない形だけの信仰者です。どちらも不十分です。私たちには主観と客観の両方が必要です。両方そろって初めてキリスト者です。
私たちは果たしてキリスト者でしょうか。もしそうなら、すべてのことが働いて益となる、と約束されています。私たちはぜひ、神を愛する者となりましょう。同時に神のご計画にしたがって召された者となりましょう。主観と客観の両方でよく整えられた信仰者としていただこうではありませんか。

【2】 神を愛する者としての成長
 それではそのような信仰者のために、どのようにしてすべてのことが益となるのでしょうか。第一に私たちがキリストをますます知る者とされる、という意味で益となります。
 苦難の時、それはキリストの苦難にあずかる時です。またキリストが私たちの苦難にともなって下さる時です。つまり苦難を通して私たちはキリストを深く知り、キリストと一つになります。パウロは8章17節で「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」と教えました。
 イエス・キリストを救い主として信じる私たちは神の子どもです。神の子どもであるなら父の財産を相続します。それは確実です。しかし、その日はまだ来ていません。そしてそのような栄光を得るために実は多くの苦難を経験しなければなりません。しかし、そこにキリストがともなって下さいます。私たちはキリストとともにある共同相続人なのです。
 さらに、私たちの内におられる御霊が私たちのためにうめいて下さいます。何をどう祈ったらよいか分からない私たちのために、御霊自身が、ことばにならないうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる、と言うのです。(26)
 よって苦難の時とは私たちにとって恵みの時です。苦難を通して私たちはキリストをはっきりと知る者とされます。苦難の中に働かれる御霊の導きにより、私たちはますます父なる神の御下に導かれます。知識としてではなく経験として、神を知る者とされていきます。
 苦難が人を神から遠ざけてしまうことがあります。しかし同じ苦難が、人を神にますます近づけることもあります。私たち信仰者は後者です。詩篇119篇の著者は71節で「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました」と告白しました。この人にとっては苦しみにあったことが幸せでした。これは強がりではありません。そう思おうと努力しているのでもありません。心からそのように感じ、告白しています。
 そのように告白できたのは、その苦しみの中で神のおきてを学んだからでした。苦しみの中でともにいて支えて下さる方を深く経験したからでした。そのような意味で、すべてが益とされていきます。苦難の中で、私たちはますますイエス・キリストと出会い、神を知る者とされていくのです。そしてますます神を愛する者とされていきます。それは何と感謝なことではないでしょうか。

【3】 神のご計画の中にある者としての恵み
 信仰者のために、どのようにしてすべてのことがともに働いて益となるのでしょうか。二番目に苦難を通して、私たちが神のご計画にしたがって召された者たちである恵みを知ることができます。
 29節にてパウロは、「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿に定められたのです」と記しています。神様は私たちをあらかじめ知っておられました。私たちが生まれる前から神様は私たちのことをご存知で、その時から救いのみわざを始めて下さいました。私たちを選び、時かなって救いの恵みを与え、ご自身の子どもとして下さいました。
 さらに神様は、私たちを御子のかたちと同じ姿に定められました。その先駆け(長子)として来られたのがイエス・キリストだったのです。私たちの救いは、永遠のいのちをいただいたことだけではありません。御子、つまりイエス様と同じ姿となるように、神様が定めて下さったのです。私たちの理解を遥かに超えたことが、ここで教えられています。しかしわかることは、神様のご計画の中に置かれることが、いかに幸いなことであるかということです。
神様は、私たち一人ひとりを徹底的に愛しておられ、過去から未来に至るまで絶えず私たちを導いておられます。そして、私たちはいつか必ずキリストと同じ姿になるのです。それが神の一方的な定めです。
パウロはさらに30節で教えています。「神は、あらかじめ定められた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」 「さらに」ということばに注目したいと思います。「さらに」ということばが三回繰り返されています。神のみわざが私たちの内で力強く、継続的に働き続けることがわかります。あらかじめ定められた私たちを主は召し出して下さいました。召し出された私たちを義と認めて下さいました。義と認められた私たちに、さらに栄光を与えて下さいました。
 栄光をお与えになるのは、まだこれからのことです。この栄光を私たちはまだ経験していません。しかし、あたかも、もう与えられたことであるかのように過去形で「お与えになりました」と教えられています。これは栄光が与えられるのは確実である、という意味です。
この救いのご計画の中に私たちは完全に組み込まれています。そのために、実は試練や困難や、私たちの失敗や罪深さまでもが用いられていきます。すべてのことが神のご計画の中で益と変えられていきます。その度に私たちは砕かれたり、清められたり、整えられたりしながら、確実に栄光に近づいていきます。そのような主のご計画の中に置かれているとするならば、何と幸いなことでしょうか。

【4】 結び
 創世記50章20節で、エジプトの宰相となったヨセフが兄たちに向かって言いました。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれをよいことのための計らいとして下さいました。」 このみことばの日本語訳は絶妙だと思いました。人間の「謀りごと」は、神の「計りごと」に変えられていきます。ヨセフは兄たちの裏切りと策略によって、どれだけ苦しみ悲しんだでしょうか。しかし、そのような苦難を通してヨセフは砕かれ、清められ、整えられ、神をますます知る者とされました。そして、不思議な導きによりエジプトの宰相となり、父ヤコブとの再会を果たし、兄たちとの和解を経験しました。このすべてのことのゆえに、ヨセフは神の偉大さに圧倒され、神の素晴らしさをほめたたえたのです。
 すべてのことがともに働いて益とされることを本当に知っていたなら、私たちは苦難を恐れる必要は全くありません。この地上で私たちは多く苦しみ、多く悲しまなければなりません。しかし、その時その中に神の救いはあります。私たちは、神のご計画に従って召された者として、ますます神を愛する者となろうではありませんか。

【祈り】
 私たちに与えられた救いの恵みの素晴らしさのゆえにあなたをほめたたえます。神のご計画にしたがって召された者として、ますますあなたを愛する者として成長させてください。