復活の朝         マルコの福音書16章1~8節

2021年4月4日 飯能キリスト聖園教会 イースター礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス様は不正な裁判にかけられ、十字架刑にて処せられてしまいました。人間の罪がもたらす結果に、イエス様は敗北したかのように見えます。しかし、十字架の後に復活が続きました。人間の罪の現実がどんなに重くて深刻でも、必ず神の真理が勝利します。復活にはそのような希望が表わされています。

【1】 イエスを見守る女性たち
 復活の出来事で中心的な役割を果たすのは女性たちです。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメと言った女性たちが、日曜日の朝、イエス様が納められた墓に向かいました。
 彼女たちは実は十字架上のイエス様の姿を、遠くから見ていました(15の40~41)。またイエス様が埋葬される時もその様子をよく見ていました(15の47)。見ているだけでその他のことは何もできなかったかもしれません。しかし、イエス様が苦しんでおられた時も、最後の息を引き取って埋葬される時も、主のそばを離れずにいた彼女たちの姿を、聖書は注意深く書き留めています。それはイエス様にとっても、嬉しいことだったのではないでしょうか。

【2】 ひたむきな信仰
 女性たちは日曜日の朝の暗い内から動き始め、丁度日が昇った頃に墓にたどり着きました。そんな朝早くから何のためにイエス様の墓に駆け付けたのでしょうか。イエス様の身体に油を塗りにいくためです。そのために、女性たちはあらかじめ香油を買っておきました。
 実はイエス様の埋葬の際に、以前夜イエス様のところに来たニコデモが、没薬と沈香を混ぜ合わせた大量の香料をもってきて、イエス様の身体に塗っていました(ヨハネ19の38)。イエス様の身体に香油は十分に塗られていたのです。それでも彼女たちの気持ちは収まりませんでした。イエス様の身体に香油を塗ってさし上げて、彼女たち自身のイエス様に対する愛を表したかったのです。
 そのようにしてお墓まで駆け付ける女性たちなのですが、実は彼女たちには一つの心配事がありました。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」という心配です(3)。イエス様の墓の入り口には非常に大きな石が置かれていました。しかも封印までされていました。その事実を彼女たちは知っていました。とても自分たちの力によって石を転がすことができないこともよくわかっていたのです。
 常識的に考えたならば、墓まで来てもイエス様の身体に油を塗るのは不可能です。その時点であきらめてしまうところです。
 ところが彼女たちは、とにかく駆け付けるのです。無理かもしれません。無理だと思うのが普通です。しかし無理で元々、その場所へ行ってしまうのです。常識的な判断を彼女たちの気持ちが上回ってしまうのです。この信仰は、「一途な信仰」であり、同時に「無謀な信仰」と言うことになるのではないでしょうか。
 しかし聖書はそんな彼女たちのひたむきな信仰を高く評価しています。このような信仰の持ち主だったからこそ、彼女たちはイエス様の復活の最初の証人とされたのです。私たちは果たしてこのようなイエス様に対する熱い想いをもっているでしょうか。
  
【3】 信じられないことが
 墓に行ってみると石は転がしてありました。墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、座っていたので彼女たちは非常に驚きました。しかも、その青年がイエス様のよみがえられたこと、ここにはおられないことを告げたのです。さらに、イエス様がガリラヤに行かれたこと、そこでお会いできることを弟子たちに伝えるようにと、指示も与えられました。
 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去りました。恐ろしさのために震え上がり、気も動転していたからです。彼女たちは内心では大きな喜びも感じました(マタイ28の8)。死んだと思っていたイエス様が生きていることを知らされたからです。しかし、驚きや恐れの方がそれよりもはるかに上回っていました。その後、彼女たちも冷静さを取り戻し、最終的には青年に言われた通りに、イエス様の復活の事実を弟子たちに伝えました。しかし、この時はショックの方が大きくて、だれにも何も言えない状態でした。信じられないことが起こったからです。

【4】 結び
 マルコの福音書の記事はイエス様の復活の事実に驚き、おののいている女性たちの姿に注目しています。そして、彼女たちの姿を通して、それはとても信じられない事実であることを私たちに伝えています。
 イエス・キリストの復活とはとても信じられないことです。死んだ人が生き返るなんて、常識的にはあり得ないことです。しかし、そのあり得ないことが起きたと聖書は主張しています。復活は私たちにはとても信じられないことなのです。
 しかし神に不可能なことはありません。人間の理性や常識を遥かに超えているからこそ神なのです。私たちの常識の中に納まってしまう方ならば、その方は神ではありません。私たちの常識を遥かに超えているからこそ、私たちは神に信頼できるのです。イエス・キリストは復活され死に勝利されました。そして今も生きておられます。さあ、この方を信じ、この方に信頼していきましょう。