舟の右側に網を打ちなさい     ヨハネの福音書21章1~14節

2021年4月11日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 イースターは終わりましたが、私たちはもう少しイースターの余韻に浸りたいと思います。イエス様が復活された事実は、私たちにとって具体的にはどのような意味があるでしょうか。イエス様が弟子たちの前に自らを「現わされた(1、14)」のはなぜだったのか、その意味について考えてみたいと思います。

【1】 弟子たちの状態
 場面はガリラヤのガリラヤ湖(ティベリア湖)です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど7名の弟子たちがそこに集まっていました。ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と答えました。彼らの多くは元漁師たちでしたが、イエス様の弟子である立場を捨てて漁師に戻ろうとしたわけではなかったと思います。とりあえず生きていくため、生活の必要のために漁に出たのではなかったでしょうか。
 かと言って弟子に戻れるとも思っていなかったことでしょう。彼らは皆、心に傷を負っていました。イエス様を皆、見捨てて逃げてしまったからです。弟子としての自信はすでに喪失していました。イエス様が復活された事実を知らされて喜びましたが、それでも、以前のようにイエス様に喜んでついていくことはできませんでした。これから先どうしていったらいいのか。弟子たちは将来に対する漠然とした不安を抱えていたに違いありません。
 漁に出て一晩中働きましたが、魚は一匹も捕まりませんでした。弟子たちの心の内を象徴的に表しているようです。

【2】 イエスの現れ
 そんな時、イエス様が湖の岸辺に立たれ弟子たちに「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と語りかけました。弟子たちは「ありません」と答えましたが、その人物がイエス様だとは気づきませんでした。
 するとイエス様は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」。弟子たちは、そのことば通りにしてみると、引き上げることができないくらいおびただしい数の魚が網にかかりました。その時、一人の弟子(ヨハネ)がペテロに言いました。「主だ」。岸辺に立っている人がイエス様であることに気づいたのです。
 彼らは思い出しました。かつて同じガリラヤ湖で同じような経験をしたことを。夜通し働いて魚が一匹も捕れなかったのに、「深みに漕ぎ出せ」とのイエス様のことばに従って漁をした時、おびただしい数の魚が捕まったことを。あの時、イエス様は弟子たちを「人間を捕る漁師」にして下さいました。彼らがイエス様と出会い、神の臨在に触れ、弟子とされる経験だったのです(ルカ5の1~11)。
 ペテロはヨハネの「主だ」ということばを聞いて、上着をまとった上で湖に飛びこみました。恐れを抱きつつ、イエス様の下に駆け付けようとしました。

【3】 イエスの愛
 岸にたどり着くとイエス様は何と炭火をおこし、パンと魚を焼き、弟子たちのために朝食の準備をしておられました。イエス様自らが弟子たちのために給仕をして下さったのです。
 その光景は弟子たちの内に懐かしい感動を引き起こしました。そうです。かつて五つのパンと二匹の魚を用いて、たくさんの群衆を満たして下さったあの時と同じイエス様です。弟子たちはイエス様が復活された喜びをかみしめ、そのイエス様が自分たちに仕えて下さっている恵みを味わいました。パンと魚で彼らのお腹も満たされましたが、それ以上に、彼らの心やたましいが満たされたのです。
 イエス様は十字架にかかる前から復活を預言され、先にガリラヤで待っている、ということを弟子たちに告げていました(マルコ14の28)。なぜガリラヤに行くようにイエス様は弟子たちに指示していたのでしょうか。ガリラヤとは弟子たちがイエス様と出会った場所であり、弟子としての召しと訓練を受けた場所であり、イエス様と共に過ごした場所でした。彼らにとっての信仰者としての、また弟子としての原点の場所だったのです。
 あの同じ場所、同じ風景の中でイエス様と出会い、弟子たちは癒され、満たされました。イエス様は弟子たちのことをよくご存知で、その弟子たちをあの懐かしいガリラヤで整え、もう一度弟子として立たせて下さったのです。

【4】 結び
 イエス様の私たちに対する選びと召しも全く変わりません。私たちも信仰者として失敗したり、挫折を経験したり、不信仰になったりする時があります。弟子としては全く相応しくないように感じる私たちです。しかし、それでも主は私たちを選んで下さいました。しかも主は私たちの必要をよくご存知です。私たちを癒し、慰め、満たして下さいます。そして私たちをもう一度、立ち上がらせて下さるのです。
 疲れた時、傷ついた時、弱さを覚える時は、迷わずにイエス様の下に帰りましょう。復活の主は生きておられます。私たちの必要をすべてご存知です。そして私たちに具体的に関わって下さいます。そして、不十分な私たちを尚も主の栄光のために立ち上がらせて下さいます。私たちの仕えている主は生きておられるのです。