イエスか、バラバか       マルコの福音書15章1~15節

2021年3月7日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 東日本大震災より10年の時を刻むことになりました。当時岩手にて大震災を経験し、被災の現場に何度も駆け付けた時のことを思い出します。神様がおられるならば、なぜこの世に、このような悲劇が起こるのだろうかと、考えさせられました。
 その時、一つ思わされたことがあります。もし、ここにイエス様がおられたならば、人々はきっと救われるのではないか。この世の矛盾も悩みも苦しみも体験されたイエス様ならば、その痛みも苦しみもすべてわかって下さる。イエス様を人々によく知ってもらうために、私たちもイエス様が体験された苦しみをよく知る必要があると思わされました。
 
【1】 ピラトに引き渡されるイエス
 ユダヤ議会での協議を終えた祭司長たちは、イエスを縛って連れ出し、ローマの総督であったポンテオ・ピラトの下に引き渡しました(1)。イエス様を死刑に定めてもらうためです。当時、ユダヤ議会では罪人を死刑に定めることはできず、その権限はローマ帝国がもっていました。
 ユダヤ議会においてイエス様は、神に対する冒瀆罪の罪で有罪とされました。ところがローマ法廷において祭司長たちは、イエス様が「ユダヤ人の王として民を扇動した」と主張し、国家への反逆罪としてイエス様を訴えています。そのために祭司長たちは様々な訴えを起こしました。イエス様をどうしても死刑にしたかったからです。
 イエス様はピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」という質問に対しては、「あなたがそう言っています」と答えましたが(2)、それ以外の訴えには何一つお答えになりませんでした。このイエス様の対応にピラトは驚きました。自分を不利にする訴えに対して何一つ弁解することなく、言われるままにされていたからです。不正な裁判をそのまま受け止めているイエス様の姿が記されています。

【2】 イエスか、バラバか
 実はピラトはイエス様が無罪であることに気づいていました。さらに、祭司長たちがねたみからイエス様を自らに引き渡したことも知っていました(10)。そこでピラトは、当時、祭りの際に行使されていた恩赦制度を利用して、イエス様を釈放しようと試みました。
 ところがそこでピラトも想定していないことが起こりました。民は何とイエス様ではなく、バラバを釈放してほしいとピラトに要求したのです。バラバとは強盗と殺人の罪で捕らえられていた重罪人です。そのバラバを釈放し、何の罪もないイエス様を「十字架につけろ」と民は要求し始めました。実は、この民は祭司長たちに扇動されていたのです。
 イエス様の無罪を信じるピラトは、イエス様を釈放するために努力しました。「あの人がどんな悪いことをしたのか」(14)と民に問いかけましたが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトの暫くの抵抗の後、遂に群衆の声が勝利しました。ピラトは暴動が起こるのを恐れて、さらに群衆を満足させるためにバラバを釈放し、イエス様を十字架に引き渡してしまいました。
 祭司長たちの恐ろしい程の執念深さを感じます。人間のもつねたみ心が、いかに破壊的な結果を引き起こすのか、私たちはここで教えられます。イエス様を直接十字架につけたのは人間の内側に潜む、ねたみ心だったのです。

【3】 十字架に引き渡されたイエス
 その後のイエス様はむちで打たれました。当時、むちの先に石や動物の骨などが取り付けられていて、打たれる度に肉片が飛び散ったと言われています。イエス様は十字架に架けられる前から、傷だらけになりました。どんなに辛かったことでしょう。イエス様はこのように、ピラトから十字架に引き渡されたのです。
 聖書にて「引き渡される」とは大事なことばです。イエス様は以前弟子たちに向かって人の子は、祭司長たちや律法学者たちに、異邦人に、そして十字架に「引き渡されます」と預言されていました(10の33)。すべては預言通りでした。そして、それはイエス様が神の祝福から離されて、壮絶な苦しみに引き渡された事実を表していたのです。
 イエス様はそのようにして、屠り場に引かれていく羊のように、黙って十字架の道を進んで行かれました。それはすべて私たちがイエス様の打ち傷によって癒されるため(イザヤ53の5)、そして私たちの罪をその身に負って私たちの身代わりとなるためだったのです。

【4】 結び
 この世には理不尽な苦しみが満ちています。私たちも信仰をもってこの世を歩んでいく時に様々な苦しみを味わいます。
 しかし、それは「キリストの苦難」です。そこで私たちはキリストの味わった苦難を主とともに味わい慰められます。そしてその慰めをもって同じ苦難にあっている人々を慰めることができるのです。(Ⅱコリント1の4~5)。
 大震災の被災の現場に、このキリストの慰めが豊かにあるように。そして私たちも苦しみの中で、主の慰めを深く知ることができますように、その慰めをもって互いに慰め合うことができますように、主の十字架の苦しみを味わいましょう。