イエスの埋葬           マルコの福音書15章42~47節

2021年3月28日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 十字架上で最後の息を引き取られたイエス様。今日はそのイエス様が埋葬される場面に注目したいと思います。イエス様の埋葬の労を買って出たのは、アリマタヤ出身のヨセフという人物でした。

【1】 アリマタヤのヨセフの信仰
 アリマタヤのヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた人物であったことが43節に記されています。この人は金持ちで主の弟子であったこと(マタイ27の57)、また善良で正しい人であったこと(ルカ23の51)が、聖書の他の記事からもわかります。
 このヨセフがイエス様の身体を引き取って墓に納めました。そのためにはピラトの許可が必要でした。ヨセフは「勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た」と43節に記されています。それはとても勇気のいる行動でした。
 イエス様の埋葬を買って出ることをピラトに伝えたならば、イエス様の弟子である事実が明らかになってしまうのではないでしょうか。ユダヤ議会の議員たちのほとんどが、イエス様の死刑を支持しました。イエス様を殺すことが彼らの願いでした。その中にあって、ヨセフは自分がイエス様の弟子であったことを、恐れて隠していたのです(ヨハネ19の38)。イエス様との関係を公言することは、とても勇気がいることでした。でもヨセフはこの時、勇気を出してイエスの身体の引き渡しをピラトにお願いしました。
ピラトはイエス様がもう死んだとの知らせを聞いて驚いたようです。その後、イエス様の死を確認した上で、イエス様の遺体をヨセフに下げ渡してくれました。
 その後、ヨセフはイエス様を降ろして、買っていた亜麻布で包み、岩を掘って作っていた自分の墓に納めました。そのようにしてヨセフは心を尽くして、イエス様の身体を墓に納めました。イエス様に対する信仰と愛を明らかにしたのです。

【2】 ヨセフの勇気の理由
 アリマタヤのヨセフは聖書の中で、イエス様の埋葬の場面だけに出てくる人物です。おかげでヨセフは「イエス様を埋葬した男」として、世界中の人々に知られることになりました。神様の主権の中で、ヨセフはこの時、大いに用いられたことがわかります。
 もしこの時、ヨセフがイエス様の身体の引き取りを申し出なければ、イエス様はどうなっていたでしょうか。弟子たちは皆、恐ろしくて逃げてしまっていました。その場に、たくさんの女性たちが十字架上のイエス様を見守っていましたが、彼女たちにもイエス様の埋葬はできなかったことでしょう。
 しかしヨセフはイエス様の弟子であり、しかもユダヤ議会の有力な議員でした。そのヨセフがもっていた社会的立場が用いられたのではなかったでしょうか。そのような立場をもつヨセフだからこそ、ピラトにお願いすることができたのではないでしょうか。
 さらにヨセフは岩を掘って作った立派な墓まで用意していました。それはイエス様のために作った墓ではなく、おそらく自分か自分の家族のために作った墓だったと思います。しかし、その墓を埋葬の場所として、ヨセフは主に献げました。
ヨセフはこの時、イエス様の身体を引き受けて埋葬することが、自分に与えられたつとめであると判断しました。主のくすしい導きの中でヨセフは勇気を出すことができたのです。
 
【3】 適材適所で
 私たちも神様の主権の中で、用いられることがあるのではないでしょうか。私たちの神様は、適材適所で私たちを用いられる方です。
 主に用いられる人材として、ヨセフはふさわしい人だったでしょうか。ヨセフはどちらかと言うと臆病で、気弱な人だったように思います。自分が信仰者であり、主の弟子であることを公言できない人でした。どうせだったならば、もっと早い段階で公言できたら、と私たちは思うかもしれません。しかし、この臆病なヨセフが、イエス様を埋葬する際に大いに用いられました。
 私たちも与えられた信仰を堂々と公言できない時があります。クリスチャンであること、信仰者であることを遂、隠したり、ごまかしたりしてしまうことがあるのではないでしょうか。でも、ヨセフもそうでした。そのヨセフが大いに用いられたのです。
 信仰の薄い、気弱な私たちをも主は用いられます。主が私たちを必要としておられる時があるのではないでしょうか。大事なことは、主のみこころに敏感であることです。主は今、この自分に何を期待しているのか、何をなさろうとしているのかに注意深くあることです。
弱い私たちを主の御手の中にあって、大きく用いて下さる主の導きに期待しましょう。そして主の導きの中で、私たちも勇気を出して主にお従いしていきたいと思います。

【祈り】
 あなたの御手の中で、私たちをふさわしく用いてください。