エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ    マルコの福音書15章33~41節

2021年3月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 極刑としての十字架
 十字架は今、教会のシンボルとなりました。どこの教会に行っても十字架が掲げられています。しかし、教会の歴史の最初の段階で、十字架は教会のシンボルではありませんでした。十字架が、人々に戦慄と恐怖を与える、のろいの象徴だったからです。
 死刑囚を処刑するための様々な方法がこの世にはありますが、十字架刑ほど惨い処刑法は他にありません。囚人を苦しめながら、ジワジワと少しずつ殺していくからです。しかもその間、人々に対する見せしめにされました。イエス様はそのような想像を絶するほどの苦しみを味わわれたのです。
 イエス様は十字架上で肉体の苦痛を体験され、人々からののしられたり、嘲られたりする精神的な苦痛も体験されました。しかしイエス様にとって最大な苦しみは、父なる神様に見捨てられるという苦しみでした。
 十字架上でイエス様は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。つまり、これは神から見捨てられた者の叫びです。そして、イエス様が聖なる神の御怒りを受けたことを表しています。
 12時になったとき、闇が全地を覆って、午後3時まで続いた、と33節に記されています。砂嵐が起きたのでしょうか。黒雲に太陽も空も覆われてしまったのでしょうか。詳しいことはわかりませんが、暗闇とはさばきの象徴でした。イエス様はまさに聖なる神の御怒りを受けて、さばかれたのです。
 その後、イエス様は大声を上げて、息を引き取られました。壮絶な死でした。

【2】 被害者は誰か
 東日本大震災の後、苦しんでいる自分の気持ちをなかなかわかってもらえなくて、人々に対して心の中で不満が大きくなったり、自己憐憫の感情に囚われたりして、被害者意識を募らせてしまったことがありました。私たちは時々、被害者意識に囚われてしまうことがあるように思います。自分の受けた傷や痛みを必要以上に強調して、人を非難したり攻撃したりしやすい傾向を私たちはもっているのではないでしょうか。しかし私たちは本当の被害者は誰であるのかを、よく考えなければなりません。本当の被害者はイエス様だったのではないでしょうか。
 聖書は私たちが「生まれながら御怒りを受けるべき子ら(エペソ2の3)」だったと教えています。神の御怒りを受けるとは、どのようなことでしょうか。それは、イエス様のような体験をする、ということです。私たちは実はイエス様のように十字架にかかり神の御怒りを受け、さばかれるべき存在でした。しかも生まれながらにして、そのような状態でした。これが私たちの人間としての出発点であると聖書は私たちに教えるのです。
 私たちは自分のことを「愛されるべき存在である」と思いやすいものです。それが私たちの人間としての出発点になっていることが多いのです。そのために、その願いをかなえてくれない人に対して不満を募らせ、批判的になります。知らず知らずのうちに自らを被害者の立場に置き、人に愛を要求してしまうのです。
 しかしイエス様はなぜ十字架にかかられたのでしょうか。その理由は私たちが罪人であるためです。つまり私たちが加害者であり、イエス様が被害者なのです。それなのにその被害者であるイエス様が、加害者である私たちを、それにも関わらず愛して下さり、私たちの罪を赦して下さるとするならば、それは驚くべき恵みです。信じられないほどの大きな愛です。そのような愛を知ったら、私たちは被害者である自らにこだわることはできなくなるはずです。
 
【3】 救いの道が開かれた
 イエス様が最後の息を引き取られた時、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記されてあります(38)。神殿内部の至聖所の入口の幕が、上から下に二つに裂けました。これは、イエス様の死によって私たちが神の臨在に近づくことができるようになったこと、救いの道が開かれたことを表しています。
 このようなイエス様の姿を見ても、イエス様を信じることができない人々が多くいました。でも、イエス様の処刑に携わった百人隊長だけは、イエス様の姿に感銘を受け、信じることができたようです。イエス様を見て「この方は本当に神の子であった」と告白しました。
 異邦人であったこの百人隊長が最初に救われた人物であった事実は、象徴的です。イエス様による救いがすべての人に与えらえる恵みであることを、私たちに伝えているからです。

【4】 結び
 自分の罪の中で苦しみ、もがいている人はいないでしょうか。人に対する怒り、不満、憎しみ、恨みなどの感情に囚われて、苦しんでいる人はいないでしょうか。人を憎んでしまう私たちのその罪をその身に背負って、イエス様は十字架に架かって死んで下さいました。私たちの身代わりとなって神の御怒りを受け、神のさばきを受けて下さいました。私たちを義とし、救いに導くためです。このイエス・キリストをぜひ、自らの救い主として信じ、受け入れようではありませんか。