十字架の上で              マルコの福音書15章16~32節

2021年3月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 十字架に向かうイエス
 今日の箇所は、ピラトにより十字架刑の宣告を受けたイエス様が、いよいよ十字架に向かって行かれる場面です。イエス様の身になったつもりで、この箇所を味わってみたいと思います。
 イエス様はまずローマ軍の兵士たちに紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶらされ、「ユダヤ人の王様、万歳」との叫びとともに敬礼されました。彼らはイエス様を王様のように仕立てて馬鹿にしているのです。その後、葦の棒でイエス様の頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝みました。さらにイエス様をからかい、元の衣を着せた上で十字架を担がせ、ゴルゴダの丘まで歩かせようとしました。
 ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様はそのまま裁判にかけられましたので、一睡もしておられなかったことと思います。さらにむちで打たれて身体中、傷だらけでした。寝不足と衰弱した身体で、重い十字架を背負うのは到底無理なことでした。そこで、兵士たちは通りかかりのクレネ人シモンという人に、イエス様の十字架を無理やり背負わせました。その後、イエス様は自らの処刑場であるゴルゴダの丘に到着されます。
 兵士たちは、苦痛を軽減するために没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様に与えようとしましたが、イエス様はそれをお受けになりませんでした。イエス様はまるで、十字架刑の苦しみのすべてを、味わい尽くそうとされているかのようです。

【2】 十字架上のイエス
 その後イエス様は手を釘で打たれ、十字架につけられました。午前9時のことでした。それからの約6時間、イエス様はこの激痛を味わい続けます。罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されてありました。二人の強盗がイエス様の両側に一緒にはりつけにされました。
 通りすがりの人たちは頭を振りながらイエス様をののしりました。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」 祭司長たちや律法学者たちも言いました。「他人は救ったが、自分は救えない」。さらにイエス様と一緒に十字架につけられた罪人たちまでもが、イエス様をののしったのです。
 イエス様は肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも様々な苦痛を味わいました。様々な人々の侮辱、嘲り、ののしりなどに耐えられたのです。他の福音書を読むとイエス様は、十字架の上でいくつかのことばを語っておられますが、マルコの福音書においてはそのほとんどが省略されています。その代わりに一連の苦しみをひたすら受け止めているイエス様の姿が強調されています。

【3】 人間と同じようになられた
 東日本大震災の後、当時岩手県内陸部の水沢に住んでいた私は支援活動のために、被災地に駆け付けるようになりました。被災者の方々の力になりたいという善意はもっているのに、自分の至らない点、理解の乏しい点などのゆえに、現地の人々の迷惑になってしまうったことが何度かあったようです。苦しんでいる人を助けることの難しさを実感し、自分自身の力不足も感じさせられました。
 一番の原因は被災者の苦しみを完全には理解できないこと、そして、被災者の側に十分に立てないこと。支援活動が結局は自己実現や自己満足の手段になっていないだろうか、人に仕えているようで結局は自分の栄光を求めていないだろうか、と考えさせられました。
 そこでいつも思わされたのがイエス様のことです。イエス様は神の御姿であられたのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分をむなしくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました(ピリピ2の6~7)。神の御姿であられた方が、人間と同じようになられたのです。人間と同じようになるとは、イエス様が罪人になられたという意味ではありません。罪は犯さなかったけれども、罪ゆえの苦しみのすべてを味わい尽くして下さったということです。
 以前、ボランティアに来て下さった青年たちを、朝、教会から被災地に送り出したことがありました。彼らは一日の働きを終えて戻ってきた時、泥だらけの姿で戻ってきました。そんな彼らの姿に私はイエス様の姿を見たような気になりました。イエス様も神の御姿だったのに、この世に来られ、人間の罪のすべてを背負って泥だらけになられたのではないかと思ったからです。自らの限界を思い知りながらも「イエス様のようになりたい」との祈りが生まれてきました。

【4】 結び
 イエス様が十字架に架かって死んで下さったのは、私たちの罪を赦し、私たちを罪の支配から解放するためでした。同時に、私たちがもはや自分のためではなく、自分のために死んで下さった方のために生きるためです(Ⅱコリント5の
15)。コロナ下の影響が今、いろんなところに及び、苦しんでいる人々、行き詰っている人々が私たちの周りにもたくさんおられるのではないでしょうか。
 主は私たちに何を期待しておられるでしょうか。私たちの重荷を担って下さったイエス様のように、私たちも人々の重荷を担い、人々に仕え、イエス様のために生きる者となろうではありませんか。自分の栄光を求めて生きる自らを悔い改め、主のために生きる者となりましょう。