よりすぐれた賜物         コリント人への手紙第一12章28~31節

2025年6月1日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 建物を建てる時には設計図が必要です。設計図通りに建てないと、建物が歪んでしまうからです。同様に神の家としての教会を建て上げる際にも設計図が必要です。設計図とは聖書です。聖書で教えられている通りに教会を建て上げる時に教会は祝福されるし、そうでない時に教会は歪んでしまいます。教会に何か問題が生じた際にも私たちはまず聖書に立ち返り、みことばの基準に沿って、教会を修理していく必要があるのです。

【1】 特別な賜物
 賜物も奉仕も働きもいろいろなのですが、しかし、その中にあって教会には特別な賜物が与えられていることを、パウロは最後に示しました。

「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち…を備えてくださいました(28)。」

 使徒たち、預言者たち、教師たちだけは第一、第二、第三と序列がついており、教会内で神が特別に備えられた賜物であることがわかります。使徒たちとはイエス様によって特別に選ばれ、訓練を受け、みことばを教えるために送り出された人々でした。また預言者たちとは、神様から預かったみことばを、そのまま人々に伝えるつとめを与えられた人々でした。そして、教師たちとはもちろんみことばを教える人たちのことです。
 つまり、この三つの賜物はみことばを人々に説き明かす働きであり、特に使徒たちと預言者たちは教会の土台となる人々でした(エペソ2:20)。教会の中には多くの賜物と奉仕がありますが、その中でもみことばに関する奉仕は特別であることがわかります。
 なぜでしょう。教会が健全に建て上げられるためには、みことばが必要だからです。そしてみことばがみことばとして説き明かされることが必要です。牧師が説教をまっすぐに語り、信徒がその語られたみことばをしっかり聴くことによって、教会は建てられていくのです。

【2】 よりすぐれた賜物を熱心に求める
 力あるわざ、癒しの賜物、援助、管理、種々の異言…その後に続く賜物は直接、みことばに関わる賜物ではありませんが、神によって備えられているという意味で、どれも等しく重要な賜物であることがわかります。
 その後パウロは「皆が…でしょうか」という問いかけを7回繰り返し、皆が使徒や預言者や教師や力あるわざや、癒しの賜物や、異言を語る者や、その解き明かしをする者ではないことを主張しました。皆に同じ賜物が与えられているわけではありません。それぞれに、それぞれの賜物が与えられています。教会は賜物において、奉仕において、働きにおいて実に多種多様です。
 ただその後にパウロは「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と付け加えました。与えられた賜物で満足しないで、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい、と命じました。なぜならば神様は求める者には必ず、よりすぐれた賜物を与えてくださるからです。
 与えられた賜物に感謝しつつも、自分の力の限界も併せて意識しやすい私たちです。ぜひそこでよりすぐれた賜物を熱心に求めて、主に仕えていきましょう。

【3】 はるかにまさる道
 パウロはこの章を閉じるに当たって最後に「私は今、はるかにまさる道を示しましょう」と語りました。今まで種々の賜物について丁寧に教えてきた上で、それよりもはるかにまさる道があることを示しました。それは愛の道です。
 これよりパウロは13章に入り教会を建て上げていくために最も大事な愛について教えていきます。パウロの賜物に関する説明はここで終わったわけではありません。14章に入るとパウロは再び賜物について教え始めます。しかし、賜物よりももっと大事なものがあります。それは私たちが愛において絶えず成長することです。
 どんなに賜物が豊かに与えられていても、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ無に等しく、何の役にもたたないからです(13:1~3)。よって私たちも愛における成長を目指して、この道を歩んでいく必要があるのです。

【4】 むすび
 聖書から教会について学んでいく時に、一つ注意しなければならないことがあります。それは教会に理想を求めるあまり、そうなっていかない教会の現実に躓いたり、不満を抱いたり、互いにさばき合ったりしてしまうことです。躓いた本当の理由は教会に理想を押し付けている自分自身にあることに、私たちはなかなか気づかないのです。
 私たちは愛のない自らの姿に気づいた時に初めて、本当の愛を求め始めます。自分自身に幻滅しない限り、いつまでも自分で人を愛せると、どこかでうぬぼれているのです。そのために神は私たちの中にある幻想を打ち砕かれます。私たちが本当に神にすがるために、それもまた神の恵みなのです。