世を愛することは神と敵対すること    ヤコブの手紙4章4~6節

2024年3月17日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生)

 ヤコブは1節で、「あなたがたの間の戦いや争いは、あなたがたの中にある欲望から出てくる」と語り、人間の内側に注目しました。そのヤコブが今日の箇所では、私たちの外側に目を向けていることがわかります。私たちの敵は私たちの内側と外側の両方にあります。その両方に勝利するために何が必要でしょうか。

【1】 節操のない者たち
 まずヤコブは、手紙の読者たちに対し4節で「節操のない者たち」と呼びかけました。とても衝撃的なことばではないでしょうか。ヤコブはここに至るまで彼らのことを「私の愛する兄弟たち」「私の兄弟たち」と何度も繰り返し呼びかけてきました。離散の信仰者たちに、どんなに散り散りになっても変わらない神による絆を確認し続けてきました。それなのに、ここにきて急に「節操のない者たち」と呼んでしまうとは…。
 しかも、このことばを直訳すると「姦淫を犯した者たち」になります。「男女関係において不貞の罪を犯した者ども」と、ヤコブは彼らのことを称したのです。激しいことばであるように感じられますが、これがまさに彼らの姿を象徴的に表すことばだったのです。何が問題だったのでしょうか。彼らのどこに課題があったのでしょうか。
 第一に彼らは世を愛し、世の友となりたいと思っていました。二番目にそれによって彼らは神に敵対し、自分を神の敵としていました。さらに三番目として、その事実の深刻さに彼らは気づいていませんでした。彼らは神を愛しながら、世も愛せるとどこかで思っていました。神に対する愛と世に対する愛は同時に成り立つと考えていたのです。それは大きな勘違いでした。 
 イエス様も言われました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません(マタイ6の24)。」 神を愛することと、世を愛することは共存できないのです。

【2】 神が私たちのうちに住まわせた御霊
 その状態は、契約関係を結んだ神を捨てて他の者を愛したという意味で、姦淫の罪を犯したことと同じなのです。どうすれば神を悲しませるこのような自らの状態に気づき、神との関係を取り戻すことができるのでしょうか。そのために必要なものは御霊であることがわかります。

 「それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる(5)。』」

 このことばから三つのことがわかります。第一に神が私たちのうちに御霊を住まわせてくださったこと、二番目に神はその御霊をねたむ程に慕っておられること、そして三番目にそれが聖書の語る大切なメッセージである、ということです。
 私たちが神を愛し、神の友となるために知っておかなければならない大切な事実があります。それは神が私たちのうちに御霊を住まわせてくださったこと、さらにこの御霊に対する神の期待は大きいということです。
 神は、この世に奪われてしまった私たちを何としても取り戻したいと願っておられます。その思いはねたむ程の大きな愛です。私たちがこの世に心を向けても、私たちの心はあまり痛まないかもしれません。しかし、その時に神はどんなに心を痛めておられるのか、私たちは果たして自覚したことがあるでしょうか。神のそのような大きくて迫るような愛を、私たちは経験したことがあるでしょうか。
 私たちの内側の課題を克服するための助けは、私たちの内側にあります。私たちのうちに主が住まわせた御霊が、私たち自身の矛盾に満ちた姿と私たちに対する神の大きな愛に気づかせてくれるのです。

【3】 恵みはへりくだった者へ
 神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。神はいつでも気前のよい方です。私たちが求める以上のもので私たちを満たしてくださいます。
 ただし神の恵みを自分のものにできるか、それとも無駄にしてしまうかは私たちの心次第です。神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みをくださるからです。私たちにへりくだった心と姿勢が必要なのです。
 自分がすでに満たされていると思い込み自分の渇きに気づかない人、自分の力に頼り自分は大丈夫だと思っている人、罪人としての自分を認めようとしない人に、神の恵みは届きません。そのような人々に神は敵対されます。
 しかし自分の渇きを自覚している人、自分に自信のない人、自らの罪を悲しんでいる人には神が恵みを豊かに注いでくださいます。豊かに注がれる恵みに生かされるかどうかは、私たちの心次第なのです。
 
【4】 むすび
 私たちは内には欲望を抱え、外にはこの世と対面し、その両方との闘いに晒されています。その間に入って私たちを守るもの、それは御霊と恵みです。私たちの内に住む御霊と私たちに豊かに注がれる恵みの両方をしっかりと受け止めることによって、私たちは神を愛し、神の友となることができるのです。