戦争の原因              ヤコブの手紙4章1~3節

2024年3月10日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 戦争の原因
 ロシアとウクライナの間の戦争も、イスラエルとハマスの間の戦争も終わる気配が見えません。どうすれば戦争は終わり、平和はもたらされるのでしょうか。世界中の人々が今、祈っています。
 答えは聖書の中にあります。地上の知恵ではなく、上からの知恵が必要です。なぜならば上からの知恵は、人々に清さをもたらし、平和と優しさと協調性とあわれみをもたらすからです(3の17)。
 戦争する人々には必ず大義名分があります。戦争をしなければならない理由があります。しかし、それらの理由はみな「地上の知恵」であり、「上からの知恵」ではありません。なぜならそれらの知恵は平和をもたらすのではなく、秩序の乱れと邪悪な行いを生み出すからです。どんなに全うな理由であるように見えても、それは肉的で、悪魔的です。なぜなら、人の心の中にあるねたみと利己的な思いとに密接につながっているからです。
 
【2】 あなたがたの間にある争い
 ヤコブはここで国家間、民族間の戦争について話しているのではありません。「あなたがたの間の戦いと争い(1)」について語っています。つまり、これは私たちの間の戦い、信仰者同士の中にある戦い、教会内の戦いについて語っているのです。残念なことに、私たちはキリスト者であっても互いに悪口を言い合ったり、戦ってしまうことがあるのです(11)。
 国家間の大きな戦争から、教会や家庭内の不和、小競り合いに至るまで、私たちが戦ってしまう原因はみな同じです。私たちの間の戦いは「ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか」とヤコブは問いかけました。戦いと争いの原因は、私たちの内側にあります。私たちの心の中にある欲望から出てくるのです。
 その欲望についてヤコブは「あなたがたのからだの中で戦う欲望」と説明しました。この内的な激しい戦いを経験したのがパウロです。

「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。」  
(ローマ7の23)

 パウロはみことば通りに神のみこころに従って歩んでいきたいと願っているのに、自分の心の中には「罪の律法」と呼ばれるもう一つの原理があり、それが自らを罪のとりこにしている、という内的な戦いに苦しんでいました。
 自分の罪について悩むのは、今の時代、あまりポピュラーではないかもしれません。しかし罪意識が薄いために、私たちの喜びも薄くなっているのではないでしょうか。罪は私たちが思う以上に深く、恵みもそれ以上に深いのです。
 
【3】 どのような動機で求めるか
 欲望に心を捕らわれている人は、どのような生き方をしてしまうのでしょうか。欲しても熱望しても、自分のものにならないと人殺しをしたり、争ったり戦ったりします(2)。人間の欲望とは、いかに激しく、恐ろしい結果を引き起こすものでしょうか。私たちの内側にあって経験される、この激しい戦いに私たちはどうすれば勝利できるのでしょうか。
 ヤコブは「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです」と語りました(2)。これは神に対して求めない、という意味です。欲望に捕らわれている人の特徴は、ひたすら自分のために求めるということ、そして、神に求めることがない、という点にあります。求める方向を自分にではなく、神に向けなさいと、ヤコブはここで教えているのです。
 神に求めれば何でも与えられるのでしょうか。そうではありません。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからだ、とヤコブは続けて語りました(3)。みこころにかなった願いは必ずかなえられます。しかし、求めても与えられないのならば、そこで問われるのは心の中にある私たちの動機です。祈りの中で私たちは自らの動機が探られていくのです。

【4】 むすび
 神は人間の欲求を否定していないことに、私たちは驚かされます。神は私たちの心の中にある激しい欲望を、みこころにかなう欲求に変えてくださいます。よって、聖書の教えは禁欲主義ではありません。
 私たちの苦々しいねたみと利己心、欲望に支配された心が、主の御手の中で自分から神へ正しい方向に向けられていく時、清められ整えられていきます。
 私たちはどこを向いて歩んでいるのでしょうか。自分自身でしょうか。それとも神でしょうか。今私たちの心の中にある願いは何のための願いでしょうか。自分の満足のためでしょうか。それとも主のご栄光が表されるためでしょうか。もし自分の満足のためであるならば、それが満たされない時には必ず戦いと争いが起きます。欲しても自分のものにならないので、私たちはすぐに怒るのです。
 しかし、もしそれが神の栄光のための願いであるならば、主は私たちのその心の願いをかなえてくださいます。心を開いて主に祈りましょう。